観ること 語ること 人はなんでブログで語るのか、とかをグダグダと考えてみた。
映画、舞台や本を観ること、その上で誰かに向けて語ることについてつらつらと思ってる事を書いてみたい。
自分語り、独善的な考え方の話になってしまうので、予めご了解のほど。
小説に登場する映画に関する言葉で、どうにも頭から離れない台詞がある。
村上龍の「音楽の海岸」の中で主人公が語る、「映画なんてものは誰だって好きさ。というより誰だって好きなものが映画なんだ。だから、『わたしは映画が大好き』なんて言ってるような奴は最低のバカなんだ」と言う言葉だ。
映画が大好き、なんてまさに言ってしまいそうだが、この「好き」ってのが曲者だ。
彼女や彼氏、妻や夫から、私のどこが好きって聞かれた時ほど返答に困るときはない。
顔が好き、性格が好き、体が好き、方言が好き、オッパイが好き、優しさが好き…
最初の答えは、質問者の求める事、言って欲しい事を把握さえしておけば、簡単に答えられらが、その先、なんでそこが好きなのと2段目の質問が出てきたら、もうお手上げだ。
突き詰めれば、好きなものは好きなんだよ、と逆ギレ気味に答えるしか無くなってしまう。
映画や小説も同じだ。
この映画が好きだと言った後、なぜを2回か3回繰り返せば、明確なコトバでは語れなくなる。
さらに、なんで好きな映画を観るのと聞かれたりなんかしたら、観たいものは観たいし観たら語りたいんだよ、グダグダ言わずに観させろよと、仏のような穏やかな私ですら、喧嘩腰になってしまうから厄介だ。
聞かれたらなんて考えず、自分が好きなモノは好きで、他人を気にせず観りゃいいじゃん。そんな当たり前の指摘は良く分かってる。
でも、観るだけじゃなくその上で語りたくなってしまうから質が悪い。
「好き」だけでも厄介なのに「私はこれが好きです」まで加わったら、なぜの嵐に抗う屁理屈持ってないと、立ちいかなくなる。少なくとも私は。
映画や小説紹介して金貰う仕事なら明確な目的があるからわかりやすい。
しかし、
・私の好きを披露します
・こんな映画が好きな私は、流行りに敏感です
・隠された意図や構造を、読み取りましたよ私は
・誰も気づかないこんなマイナーなものまで見つけられるの感度の高い私です
・私は皆が褒めてる映画でも、真実を口にして批判できるんです
等など、
商売じゃなく映画を語る目的を考え始めると終止がつかない。
強引に2つの傾向に分けると、「良かった/悪かった映画を、あなたにも観て欲しい」「こんな風に語る私を見て欲しい」になる。
要は、共感と自己顕示欲って事だ。さらに共感の裏にもう一歩踏み込めば、そこには面白いって言ってる私がいて、そんな私の価値観を他者に承認されることで、自らの価値を確認する事と世間への所属を確認する事への欲求だ。
出たよ、承認欲求と自己顕示欲。
何かを語る事を考え始めると、結局行き着くところはここなんだな。
冒頭に引用した村上龍の言葉に戻れば、映画が好きな事はバカではないが、映画が大好きって語ることがバカなのは、好きなのは当たり前だよって事と同時に、自覚的・無自覚を問わず己の欲求を得意げに晒す姿が醜いって事なんだろう。
と言う事で、映画、小説、舞台を語ろうと決めたこのブログで私は、語る事の醜さ、しょせんは承認と顕示の欲求の言葉でしかない事を自覚して、「面白かった」「醜悪だった」「好き」などを語り、少しでも共感と評価を求めようと思う。バカって言われても気にしない。普通の感想って言われても気にしない。
「面白い」て価値も厄介なんだけど、その事はまた別の機会に。
シネマ歌舞伎「野田版 鼠小僧」 舞台 映画
「足跡姫」を観劇した流れで、野田秀樹×勘三郎+三津五郎の舞台を再見。
金の亡者の棺桶屋の三太が、ひょんなことから義賊の鼠小僧となって年の瀬の江戸の町に小判の雨を降らせる。歌舞伎の所作で、野田秀樹の世界に翻訳されたクリスマス・キャロル。
古典芸能としての歌舞伎ではないけれど、大衆芸能としての歌舞伎として、笑って、驚いて、ほろりとさせられ、満足して劇場を後にできる楽しい舞台だった。
二人は盟友として楽しく舞台を作っていったんだろうなと思わせる。
歌舞伎座の回転舞台とセリの機能を存分に活かしたセットの中で、勘三郎がところ狭しと駆け回り、野田秀樹が取り付いたかのように喋り捲る。鳴物は赤鼻のトナカイを三味線で演奏する。
観客が普段の歌舞伎とは違う反応をしている様を楽しみながら演じ続ける勘三郎の表情。
野田秀樹の才能と勘三郎の歌舞伎への想いが、がっぷりと組み合って、観客を巻き込んで奇跡の舞台を作り上げているのが、画面越しでも伝わってくる。
町民を演じる脇の役者達も普段のその他大勢とは違い、舞台の一員として生き生きと演じている。野田秀樹と勘三郎の熱が周りにも感染してる感じが観ていて気持ちよい。
生の舞台を見たかった。
歌舞伎では普段行われないカーテンコールに野田秀樹の姿は見えないが、勘三郎のすぐ隣に立って、にこやかにしてやったりと笑っている様が目に浮かぶ。
舞台の楽しみにあふれた素晴らしい体験だった。
「 クリーピー 」 本 前川裕 読書メーター
「 入らずの森 」 本 宇佐美まこと 読書メーター
ホラーと銘打たれているが、読後の印象はなぜか爽やか。中学三年生の少年少女たちの行動が強く印象に残ったからだろう。人の積年の恨みと地方の因習が、粘菌という半永久的な「生物」と交わる事で起きる惨劇の怖さよりも、構成と筋運びの巧みさから最後まで引きつける力を感じた。
「 夫のちんぽが入らない」 本 こだま 読書メーター
どうして人は、常識や固定概念にとらわれてしまうんだろう?無自覚に自分の正義は善だと平気で言えるんだろう?昨今はその押し付けの度合いが高く、さらに生き辛い。同調圧力、空気読めの傾向が高い日本だけじゃなく、行き過ぎた正論の国アメリカ等も同様だ。子供を作らないと言う普通の選択が、まるでかたわや障害者のような目で憐れまれる事。ステレオタイプの家庭を築けない事への不寛容。「善意」の暴力は相手に無頓着だ。ちんぽが入らない、その一言が言えない社会で、他人や自分の無頓着な常識に傷つきながらも前を向く著者の意志が心に響く。
「 ずうのめ人形」 本 澤村伊智 読書メーター
一つの小さな都市伝説を巡る、ミステリーホラー。小説・映画「リング」で描かれた、感染し拡大していく恐怖の構造を、論理(すこし屁理屈?)的に解釈しつつ、恐怖をつくる人、ひとの想いの恐怖を描いていく。正直、怖さはあまり感じなかったが、謎解きをしていく過程と、恐怖の根源が明らかになっていく描写は、ほどよいスピード感と牽引力のある文章で、最後まで目が離せなかった。作者のホラーへの強い愛情と過去の体験が伝わってくる良作。
「足跡姫」 舞台 NODA MAP 例えその身は滅んでも
池袋芸術劇場。
前回の「逆鱗」とは異なり、往年の多層な解釈と大仕掛けなドンデンの展開ではなく、ある意味ストレートな舞台だった。
亡くなってしまった勘三郎へのオマージュと言うだけあって、彼への想いや歌舞伎、演じる事への野田秀樹ならではの想いをストレートに、隠喩的に、多義的にまとめ上げた内容だった。
ラストシーンの桜の美しさ。その中で妻夫木聡演じる歌舞伎作者のさるわかが語る舞台と役者の在り方に胸が熱くなった。
あえての女歌舞伎が、出雲のお国と足跡姫の行く末から二度と陽のあたる場所に登場できなくなる代わりに、女形の歌舞伎へと繋がっていく。
幕が降りれば虚構の舞台での出来事はリセットされ、明日へ続いていく。
たとえ今は消え去っても江戸の時代からいまこの場所へと役者の想いは代を重ねて連なっていく。
そんな叫び、に心が震えないわけがない。
「肉体を使う芸術。残ることのない形態の芸術」の辛さを勘三郎への弔事で読んだ三津五郎の言葉へ応える野田秀樹の姿勢や姿が、強く印象に残る。
野田秀樹が勘三郎を失ってしまった事の悔しさとそれを乗り越えるための決意が、衒いもなく繰り広げられていく舞台を他の観客たちと共有できた事が嬉しい。
カーテンコールの最後、野田秀樹独りが舞台に残り、センターに正座しお礼のお辞儀をする姿に、歌舞伎の口上に繋がる役者の姿が重なり、涙が流れた。