『無限の住人』 映画 やっぱり三池崇史監督はやればできる漢だよ
原作は未読だ。だから役柄の再現の質に興味はないし、改悪なのかどうかはわからない。
この映画は一本の映画として、最高の壮絶娯楽時代劇だった。
痛みを感じるが不死身の主人公。超絶な技能を持ちながらも狂気にとりつかれた優男な武士。親の仇を討とうとする少女。異彩な野武士たち。
彼らが、縦横無尽に斬って斬って斬りまくる。チャンバラの興奮がここにある。
小姑のような時代考証(本物見たことあるのか?)なんて忘れろ。
観賞後もしばらく興奮が冷めなかった。
木村拓哉が抜群に良い。
四十過ぎた男の顔だ。野犬の目、薄汚れ血まみれの顔で見せる存在感、死ぬことも忘れることもできない男の立ち姿、今日本でここまで見せることができる役者は少ない。
キムタクはキムタクしかできないと言われるが、この映画ではしっかりと万次を演じきっていた。
TVドラマの延長のようなセリフのいくつかは興ざめだったが、普通にぼそぼそとしゃべる姿には痺れた。
原作の主人公に似ているかどうかなんて関係ない。ものまねショーじゃないんだし。
過去を捨てられず、世を倦んで無限の生を生き続けざるをえない男の姿として完璧だ。多生の縁で巡り合った妹に似た少女を見捨てることができない性根の優しさと、伝法で無頼な口調に隠された熱、死ねない絶望とそれでもどこかで終わらせることを求めてしまっている弱さ、諸々をあわせもった主人公が、映画の中のリアルな存在としてそこに生きている。その様を見ているだけでも一見の価値はある。
こう書きながらも、キムタクは役者としては好きではなかった。本人の意向なのか周囲の方針なのか、鼻に付く生粋な野郎役ばかりで、退屈だった。随分前のTVドラマ『ギフト』だけは、その生意気さ加減もストーリーにシンクロしていて良かったが、それくらいだ。
しかし、この作品では役者としての凄みが段違いに違う。
目、顔、表情。この映画の木村拓哉からは、万次を演じる意気込みと諸事の諸々を乗り越えた漢の匂いが強く伝わってくる。こりゃ惚れるよ。
一つ前の『ZIPANG』の記事に書いた仕込み刀が次から次へと繰り出され、普通の時代劇とは一味違う殺陣が、観ていて気持ちよい。
痛快じゃなく、痛み感じ血を流しながら闘っている殺陣の圧倒的な映画的リアリティから目が離せなくなる。
血の川の噎せ返るような血の香りを感じさせるラストの1対300の大立ち回りは、万次だけではなく他の二人が加わり、上下左右前後ろと交差しがら空間を縦横無尽に活用して展開される壮絶なものだ。最後の最後まで息をつめ見つめ続けることしかできず、身体中の血が湧きあがった。
壮絶娯楽時代劇の凄みに心を鷲掴みにされた、幸せな時間を過ごすことができた。
原作にこだわらず、キムタクだからなんて色眼鏡は捨て、この興奮を体験して欲しい。
キムタクの映画じゃなく、三池の映画『無限の住人』の中の万次の木村拓哉だから。
映画館で観て良かった。
帰り道、まるで小学生のように主人公になりきって歩いている自分に気がついて苦笑いしたのは秘密だ。
ついでに、戸田恵梨香の太股に密かに欲情したのも内緒だ。
『ZIPANG』 映画 これぞバブルの徒花だ。痛快娯楽時代劇ここにあり。
『無限の住人』鑑賞前に、原作に影響を与えたって話を聞き、Netflixで鑑賞。
林海象監督の第二作。西洋環境開発製作、堤康二プロデュースという、バルブ時代のセゾンカルチャーど真中の、時代の徒花のような大バジェットの作品だ。
脚本は監督と共同で作家の天童荒太が本名の栗田教行名義で参加し、ストーリーボードは雨宮慶太、主題歌はX(ジャパンの付く前)の「ENDLESS RAIN」だよ。当時としてはかなり最先端な顔ぶれで、邦画らしからぬ娯楽大作を作ろうって意思がビシビシと伝わってくる。
公開の1990年当時、たぶんシネセゾンで鑑賞した記憶がぼんやりとあったが、内容はほとんど覚えていなかった。地獄極楽丸のネーミングと謎の刺青男くらいはなんとなく印象に残ってた。
内容は、当時の惹句にあるように「痛快・超時空活劇」だ。
高島政伸が演じる無敵の山賊地獄極楽丸をはじめとして、伝法な口調が可愛い安田成美の鉄砲お百合、謎の金塗りの平幹二朗、東映忍法時代劇から抜け出したような成田三樹夫、そして監督の永遠のヒロイン鰐淵晴子が、それぞれの役を外連味たっぷりに演じていて、最初から最後までエンターテインメントに徹しているのが、観ていて痛快だった。
邦画らしい恋だのを語るシーンは退屈だったけど、全体の中では添え物みたいなもんで、豪快な地獄極楽丸の殺陣、鉄砲お百合との掛け合い、時空を超えたジパングでの活劇が次々と展開され、あっと言う間にエンディングだった。拳銃を仕舞う際にちらりと覗く10代の安田成美の太股もなかなかに素敵だった。
今風の洗練は一切ないし、SFXだった今見ればちゃちだけど、創作の力強さと、画作りの高い技術は、今でも色あせていない。
ジパングに到着してからジパング王と女王の居る城の最上階を目指すシーンのカメラの動きなんて、ドローンのないあの時代どう撮ったんだろうってくらいの高さを水平に移動する。このシーンの空間処理はなかなか凄いなと感じた。ちなみにこのシーンでは秋吉満ちるが歌らしきものを唄っていてなかなか贅沢な脇役感を醸している。
で、『無限の住人』への影響は、冒頭地獄極楽丸が100人の追っ手を相手に、ギミックあふれた数本の刀をつかって繰り広げる大立ち回りの面白さだろう。
このシーンと、その後の青い忍者との立ち回りは、爽快で痛快だ。狭い場所、広い場所、山道と次々と走り抜けながら、短剣、長刺し、仕込み刀など次々と得物を変えて斬りまくる。
時代劇の面白さの一つは間違いなくこうした斬り合いだ。緊迫感溢れる一対一の真剣勝負も捨て難いが、スクリーンを縦横無尽に駆け巡る一対多の対決は、映画的な面白さだ。
原作の作者も、さぞやこの爽快感と奇抜な斬り合いに心踊らせたんだろうな。
まあ、原作は未読なままだけど。
理屈や構造、ストーリーの含意や深みで楽しむ映画や、感情の襞を刺激され熱い感情の動きを生む映画も良いが、こういう単に爽快な気分を味わう映画も悪くない。
いや、これはこれで楽しい。
スクリーンってのはそういう映画のために、広いんだとも思う。
さて、この映画を経て書かれた原作をもとにした、どうやら本気らしい三池監督の映画『無限の住人』はどんな感じで仕上がっているのか。
明日鑑賞してきます。
『夜は短し歩けよ乙女』 映画 君と一緒に夜の京都を冒険したい
黒髪の乙女がだれだけキュートか、それがポイント。
彼女の歩く先に待っている世界のワクワク感とアニメーションの動きが楽しい映画だ。
湯浅監督の作品の中では、実は『ケモノヅメ』が一番好きで、あの爆発的で芸術的な動きをどこかで期待していたので、映画の冒頭では少し肩透かしをくらったような気分になった。
しかし、湯浅監督と森見ワールドの幸福な融合により、日常とちょっとずれた不可思議な世界が、圧倒的な存在感と多幸感で目の前であれよあれよと展開していくにつれ、スクリーンをみてるだけでずっと幸せな気分になれた。
偶然で世界を広げていく乙女と、必然でしか人と繋がれない頭でっかち自意識過剰な愛すべきぐうたら男とのご縁ができあがっていく展開をニコニコしながら見守っている、これがこの映画の正しい楽しみ方ではないか。
傑作『マインド・ゲーム』のような怒涛の動きやイメージの炸裂はないけれど、他の正統的アニメーションのような動きとは違う動くことの快楽、登場人物も小物も背景も関係なくアニメーションであることの本質的な快楽を、鑑賞中ずっと味わせてくれる。
黒髪の乙女がずんずんと歩くことそのものが、映画の快楽になり物語は大きく展開する。
原作の改変?改悪?
目の前にあるものは、原作の世界をアニメーションとして解釈したもので、改変でも改悪でもない。ちょっと抜けてる一本気な乙女がキュートに、京都の夜の冒険を歩き抜けていく楽しさ、それがこの作品の本質だ。
文字で描かれた世界をさらに広げる、ゲリラ演劇のミュージカルパートの音楽の楽しさはこの映画でしか表現できない。
ロバート秋山のパンツ総番長の歌声は、聞いてるだけでにやけてしまうじゃないか。このキャストは正解だ。
原作で色濃い京都の街であることの意味や空気は、残念ながら映画の中では薄い。
それでも乙女が歩き、先輩がぐずぐずと屁理屈を捏ねなが些細なことには積極的な不思議な行動力を発揮する街は、独特の世界として描かれている。
なにより春夏秋冬が一夜で過ぎていく街の姿は、背景としてではなく、一人の登場人物として映画の中でその存在を主張している。
あっと言う間の90分。
アニメーション映画としての快楽を堪能し、同時に乙女と先輩のご縁の始まりにキュンとなって柔らかい心持ちで席を立つことのできる映画。
人生は短いんだし、こんな映画体験は買ってでもするべきだ。
『マジカル・ガール』 映画 チラ見せの魔法に魅せられて男は恋に落ちるんだよ
元魔法少女の美女が、現実に翻弄される物語かと思ってた。
12歳の学生と教師のファーストシーンの不穏な緊張感、一転流れる聞き覚えのあるような日本のアイドル歌謡のイントロと鏡に向かい踊る短髪の少女の後ろ姿。
これだけで、この映画の他にない手触りに心は鷲掴みされ、スクリーンから目が離せなくなった。
日本のサブカルに大きく影響された設定、極力説明を排した物語の展開や演出が、映画に深い奥行きと広い世界を与えていた。
鑑賞した誰もが語るように、この映画は多くを語らない。意図的に画として見せない、台詞として説明しない部分が数多くある。
観客は、物語や人間関係や過去を想像し、余白を埋めるようにして映画を観ざるをえない。だからこの映画は観客を選ぶ。
余白を埋めるそれぞれの想像が、物語を深くし世界を広げるから観客一人ひとりが受け取る感触は、異なっていく。
私には、12歳の二人の少女の魔法、呪いなのかも知れないが、に囚われた二人の男の愛情の物語だった。
12歳の少女の瞳に射抜かれた男達は、それぞれの方法で少女の願いを叶えようとする。
失業中の父は金策のために女を脅迫し、少女のために人を殺めた男は出所後またも女のために男を排除しようとする。
私には、この映画の主人公はバルバラの魔法に囚われた初老の男ダミアンだ。
揶揄われながらも少女の視線に捉われたダミアンは、バルバラが精神を病んでいく成長の過程のどこかで彼女のために罪を犯す。何をしたかはわからないが、彼はそのことを後悔していない。
彼女のために生きられることを悦びとすら感じているのかもしれない。だから出所して彼女に再会してしまうかもしれないことを怖がるのだ。
なんて寂しい愛だろう。
再び出会ったバルバラのため男と対峙するために身支度をするダミアンのダンディーでロマンティックなこと。
その姿で静かに男と対峙し自分の命を投げ打つような提案をしながらも、バルバラが普通に男とセックスしたことを聞いた瞬間にそれまでの冷静さを失ってしまう。
なんて狂おしい愛だろう。
病室のバルバラに悲劇の元になったアイテムを渡す時のしぐさと行動。人生のすべてをあの時の少女の魔法に捧げた男の献身に込められた重さ。
なんて静謐で激しい愛だろう。
彼の生き様と、彼をそのようにまでさせた魔法少女の力に私は心を震わせた。
繰り返しになるが、語られない多くの事柄を埋めるように鑑賞することで、異なった見方ができる映画だ。
とかげの部屋での行為やバルバラに仕事を紹介する女との過去、バルバラの体に残る印の理由などから、諧謔と快楽の物語として堪能するも良い。
余命少ない少女の想いを叶えようとする父と娘のすれ違った想いに涙する、親娘の悲劇の物語として咽び泣くのも良い。
余白を想像することを拒否し、分かりづらいだけの思わせぶりで破綻した物語だと切り捨てるのもかまわない。
男達が少女の魔法に魅せられたように、観客が映画のマジックに魅せられて、それぞれの物語に心を揺さぶられる。
映画を観ることの快楽がここにある。
『聖なる怠け者の冒険』 森見 登美彦 本 読書メーター
人はなぜ本を読むのか?その真相は!ジャージャーン!大いなる暇つぶしなのであります。なぜなら人は、人である前に怠け者だから。妄想の世界に遊び。夢の世界で狸に騙され。暑い夏の土曜の祭りの幻想に酔う。気がつけば、一日は終わり、楽しかったと全身が気だるくたゆたっているのであります。それで良いのかって?「どんとこい!」の精神で過ごした怠けた時間は、他に換えのない楽しいひとときであるですから、問題はないのです。
『黒龍荘の惨劇』 岡田 秀文 本 読書メーター
大胆不敵で奇想天外なトリック。最後まで気づけなかった。さらりとした文体でオドロオドロシイ手触りではないが、その実書かれていることはかなり醜い。横溝的な手触りや因習の闇は軽いが、人の業の深さや罪の深さはこちらの方が上かも。北九州のあの事件を明治にリミックスしてみた、と言うかあの事件に関わる不気味さは普遍的なものとして背景にこっそりと隠している。作者の意図の厭らしさ(褒めてます)に魅せられた。