『湯を沸かすほどの熱い愛』 映画 やけどするほどの熱湯がいいです

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難病物で、母娘の絆、家族再生、泣きの要素たっぷりで、ある意味ずるい映画だけれど安いお涙頂戴映画になっていないところが魅力の作品。

 

宮沢りえのラストカットが、とても美しく、この映画はこのカットとそれを含むシーンのイメージが先にあって、そこから物語を構築していったのが、良く伝わってくる。

そのプロセスと映画の芯の強さが表れたきっちりと作り込まれたシナリオが、とても繊細で端々まで目が届いていて、観客を登場人物たちの世界に誘導していく。

いじめの解決や父の駆け落ちの相手の存在など、弱い部分の指摘も多いが、それはこの映画の伝えたい芯から見れば枝葉でしかなく、詳細でリアルな描写は逆に邪魔になる。

病院の庭で父ちゃんのとる一見間抜けな行動は、彼女がいる事を受けた人たちの精一杯の行動で、あの間抜けな真面目さが絶対に必要なのだと思う。ここの感性が合わないと、残念ながらこの映画への共感が下がってしまうだろ。

 

ただの泣かせ映画に陥っていなのは、全てがこのイメージ、世界観によるものだ。

衒いもなくタイトルに愛なんて恥ずかしい言葉を使っているのも同じことだ。

平凡な価値観を超えた愛情のあり方が、凡庸で安易な映画を嘲笑っているようにすら感じる。

 

主人公のお母ちゃんを演じる宮沢りえが素晴らしい。

彼女の存在感を通して描かれる母親の生き方が、観客の心を揺さぶる。

定番の涙を誘う設定やシュチエーションを一旦無化するようなユーモアや崩しがあった後で、彼女の思いや行動によって胸が熱くなるシーンが多い。

例えば、どうしようもなく衝撃的に石つぶてを投げつけてしまう彼女のいじましさは、彼女が生きてきた過去、いま作ろうとしている事、彼女の柔らかで脆い部分なと多数の複雑な心情を自然に伝えてくれる。

清廉潔白、倫理観や正義感が強いだけじゃなく、実際には弱く、適当な部分も持つどちらかというと緩くていい加減でか弱い部分の多いだろう普通の母親が、自分から変わらなければと決意しているんだと心の内を匂わすような絶妙な視線や間を見事に演じきっている。

 

彼女を取り巻く杉咲花など脇の子どもたちの自然な存在感もあまりに自然すぎて映画を忘れされるぐらいに素敵だ。

 

湯を沸かすほどの熱い愛。このタイトルに、込められた凡庸な愛情を否定する価値観、監督の静かながらも不敵な意思などが、高いレベルで纏められた物語を通して、心に伝わってくる。

泣きたいために映画を観る人にはお薦めしない。素敵な生き方をする女性の有り様に触れるために観てほしい。

『フリー・ファイヤー』 映画 人は這いつくばってでも生きて行く

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おそらくIRAがらみのアイルランド系ギャング団と南ア出身の武器商人率いる一団が、倉庫の中で銃撃戦する、それだけの映画。

それがやたらと面白い。映画が始まる前に監督からのメッセージで「FBIのたくさんの資料を読んだ結果、人間は銃で撃たれてもちょっとやそっとで死ぬということはない、ということがわかり、今作はそれを基に人間の往生際の悪さを描いた」と告げられる。

まさにその通りなかなか死なない連中が、グダグダと銃撃戦を続ける映画、それが『フリー・ファイヤー』だ。タランティーノの『レザボア・ドッグス』に一見似ているが、あちらがクールな銃撃戦なのに比べ、こちらはグズグズで格好悪いある意味リアルな銃撃戦だ。

 

登場人物全員が、クズで欲まみれの自己中な奴ばかり。

いわゆるプロフェッショナルを気取った男も、沈着冷静な紳士ぜんとした男も、知的で男を手玉に取ってる素敵な私の女も、誰一人感情移入ができる人物がいないという潔の良さ。

冒頭から武器取引開始までのテンションが、ちょっとづつずれていき、やがて一発の銃声が倉庫に響いた瞬間から、後は誰が生き残るのか、この銃撃戦がどうやって終わるのかだけのストーリーになる。この一発のきっかけもなんとも碌でなしなくせに、妙な説得力をもってそりゃ撃つよな、あつ撃っちゃったよこいつと思わせる、そこまでの緊張感の演出が巧みだ。

 

その後の銃撃戦がまたグズグズで、両足で立っている奴が一人もいない。ほぼ全員が地べたに転がっているか、物影で中腰でいる奴も体のどこかに銃弾を受けていて颯爽としていない。

ここまでクールじゃない銃撃戦は見たことがない。

一般的に銃撃アクションといって思い出す銃撃シーンとは真逆の格好悪さだ。これがなんとも痛快だから不思議だ。爽快ガンアクションではないが、会話の愚図さもあわせ監督のメッセージ通りの往生際の悪さが痛快なガンアクションだ。

単純な銃撃戦の合間に想定外の出来事が起こり、最後まで飽きさせない。気がつけばあっという間の90分で、鑑賞後は愚図連中の自業自得のあまりもの馬鹿馬鹿しさに、爽快な気分になれる。

 

監督たち製作陣は、銃撃戦をリアルなものにするために、マインクラフトを使って舞台の立体モデルを作り、10分単位づつで登場人物の位置関係を把握し、銃線や行動に矛盾がないようにストーリーボードを1,000枚以上書いたと言う。この銃撃戦にそこまで細かな計算をしていることに脱帽だ。大嘘つくには、これくらいの綿密さが必要なんだな。

ラストカットで、そりゃそうなるよな残念でしたと思わせるのが、これまた嬉しい爽快さだ。

いやーよくもこんな映画撮ったもんだ。できればスクリーンで観ることをお薦めする。

『人生タクシー』 映画 おしゃまでお喋りなチャドルのイラン女子小学生に癒される

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イランで6年の自宅軟禁、20年の映画製作を禁止されている監督ジャファル・パナヒ氏がゲリラ的に撮影したドキュ・フィクション映画。

日本からでは想像しづらいイランの日常生活の様子を通して、創造することの不自由で歪な環境を告発していく。

声高にではなく、車内に流れるのはどこか牧歌的でのほほんとした空気を通してなので、どこまでもユーモーラスで穏やかな印象の映画だ。

 

何よりも20年の間映画製作を禁じられるということは、ほぼ一生映画を撮るなということで、監督としての死を宣言されているに等しい。

それに負けず、海外の映画賞にまで応募する監督の強い意志と、この映画の中での表情とのギャップに驚く。静かに微笑む監督の顔からはその情熱や強さは想像しづらい。

 

タクシーに乗り込む人たちの状況は様々だ、車上狙いの強盗、女教師、海賊版DVDを違法にレンタルする小人、交通事故の被害者、金魚を抱えた迷信深い姉妹、姪、社会派美人女弁護士。それぞれが人生の片鱗を滲ませる会話をして降りていく。

その合間で、イランの社会の現実が語られ、緩やかが厳しい監視社会、政府の強硬な独裁的な政治が堅牢に存在することが伝わってくる。女性の扱いが低く、兄弟間でもしっかりとした遺言がないと財産を親族に身ぐるみ剥がされ、洋画や洋楽は違法で、バスケットボールを観戦に行く時でさえ政府から言いがかりのように拘束されることがある社会だ。

 

おしゃまでおしゃべりな姪っ子の明るさが、この映画を軽やかで明るい雰囲気を作ってくれるが、その姪でさえ社会の"ルール"が自然に刷り込まれていることがわかるシーンには静かに衝撃を受けた。悪いことをしているから怒るのではなく、撮っている動画が検閲の対象になって公開できなくなることに怒る彼女は、とても自然に社会の価値観で状況を把握している。

 

別にイランだけが特殊な環境ではない。観客という異邦人にわかる形で監督が提示しているのは、どの国にいても同じような状況で子供も大人も生きているのではという問いかけだ。あたりを見回せば、確かにここでももそこでも、自分を含む人々が正しいと思っている価値観で自然に振舞っている。何が「正しい」かの答えは知らないが、そら恐ろしいのは当たり前だと思っている人の生き方だ。

 

てことを考えさせる内容だけれど、けっして堅苦しい映画ではない、ずっとタクシー内で話は進み、ところどころでユーモラスな出来事やアクシデントがおこりクスリとさせられる、暢気な空気のある作品だ。

 

数十年前、展示会の仕事でイランに2週間ほど滞在したことがあるが、会場とホテル、レストランとの往復で、街中には数回しか出なかった。公園で男性同士が仲良く時間を過ごしているのが印象的だった。

イスラム圏特有の女性の衣装チャドルやヒジャブの下には、ジーパンや派手なシャツを着ていて、舞台裏の外国人しかいない場所では、若い女性達がチャドルを脱いでくつろいでいたのが印象的だった。

しょせん短期間の滞在者には見えない社会の体制や監視や拘束がああした社会に存在していたのかと、改めて考えさせられた。

 

蛇足:蛇足の短編について。新宿武蔵野館だけなのかどうかは知らないが、本編の前に2本日本の監督によるこの映画をリスペクトしたらしいショートムービーが上映される。これが酷く、不愉快だった。

1本はドキュメント映画監督の映画か映像かという中身のないものだ。監視官の口から唐突に教育勅語なんて単語が飛び出す、左巻きの思考停止な価値観が丸出しで、パナヒ監督やこの映画を本当に見たのかと問い詰めたくなる。人の映画を口実にせずに自分の映画だけにして欲しい。

もう1本は、内容もないし、映画の製作を禁止されたらそれでも撮りたいのは自分の息子の様子だという、そんなものしか撮りたいと思えないなら、映画監督なんて止めてしまえという中身のない、ついでに思考もないくずだ。

誰が企画したかわからないが、『人生タクシー』のためにぜひ速攻で同時上映を止めていただきたい。

『無限の住人』 映画 やっぱり三池崇史監督はやればできる漢だよ

 

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原作は未読だ。だから役柄の再現の質に興味はないし、改悪なのかどうかはわからない。

この映画は一本の映画として、最高の壮絶娯楽時代劇だった。

 

痛みを感じるが不死身の主人公。超絶な技能を持ちながらも狂気にとりつかれた優男な武士。親の仇を討とうとする少女。異彩な野武士たち。

彼らが、縦横無尽に斬って斬って斬りまくる。チャンバラの興奮がここにある。

小姑のような時代考証(本物見たことあるのか?)なんて忘れろ。

観賞後もしばらく興奮が冷めなかった。

 

木村拓哉が抜群に良い。

四十過ぎた男の顔だ。野犬の目、薄汚れ血まみれの顔で見せる存在感、死ぬことも忘れることもできない男の立ち姿、今日本でここまで見せることができる役者は少ない。

小栗旬じゃなくて良かった。(銀魂はまた別の話だ)

キムタクはキムタクしかできないと言われるが、この映画ではしっかりと万次を演じきっていた。

TVドラマの延長のようなセリフのいくつかは興ざめだったが、普通にぼそぼそとしゃべる姿には痺れた。

原作の主人公に似ているかどうかなんて関係ない。ものまねショーじゃないんだし。

過去を捨てられず、世を倦んで無限の生を生き続けざるをえない男の姿として完璧だ。多生の縁で巡り合った妹に似た少女を見捨てることができない性根の優しさと、伝法で無頼な口調に隠された熱、死ねない絶望とそれでもどこかで終わらせることを求めてしまっている弱さ、諸々をあわせもった主人公が、映画の中のリアルな存在としてそこに生きている。その様を見ているだけでも一見の価値はある。

こう書きながらも、キムタクは役者としては好きではなかった。本人の意向なのか周囲の方針なのか、鼻に付く生粋な野郎役ばかりで、退屈だった。随分前のTVドラマ『ギフト』だけは、その生意気さ加減もストーリーにシンクロしていて良かったが、それくらいだ。

しかし、この作品では役者としての凄みが段違いに違う。

目、顔、表情。この映画の木村拓哉からは、万次を演じる意気込みと諸事の諸々を乗り越えた漢の匂いが強く伝わってくる。こりゃ惚れるよ。

 

一つ前の『ZIPANG』の記事に書いた仕込み刀が次から次へと繰り出され、普通の時代劇とは一味違う殺陣が、観ていて気持ちよい。

痛快じゃなく、痛み感じ血を流しながら闘っている殺陣の圧倒的な映画的リアリティから目が離せなくなる。

血の川の噎せ返るような血の香りを感じさせるラストの1対300の大立ち回りは、万次だけではなく他の二人が加わり、上下左右前後ろと交差しがら空間を縦横無尽に活用して展開される壮絶なものだ。最後の最後まで息をつめ見つめ続けることしかできず、身体中の血が湧きあがった。

壮絶娯楽時代劇の凄みに心を鷲掴みにされた、幸せな時間を過ごすことができた。

 

原作にこだわらず、キムタクだからなんて色眼鏡は捨て、この興奮を体験して欲しい。

キムタクの映画じゃなく、三池の映画『無限の住人』の中の万次の木村拓哉だから。

映画館で観て良かった。

帰り道、まるで小学生のように主人公になりきって歩いている自分に気がついて苦笑いしたのは秘密だ。

ついでに、戸田恵梨香の太股に密かに欲情したのも内緒だ。

『ZIPANG』 映画 これぞバブルの徒花だ。痛快娯楽時代劇ここにあり。

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無限の住人』鑑賞前に、原作に影響を与えたって話を聞き、Netflixで鑑賞。

林海象監督の第二作。西洋環境開発製作、堤康二プロデュースという、バルブ時代のセゾンカルチャーど真中の、時代の徒花のような大バジェットの作品だ。

脚本は監督と共同で作家の天童荒太が本名の栗田教行名義で参加し、ストーリーボードは雨宮慶太、主題歌はX(ジャパンの付く前)の「ENDLESS RAIN」だよ。当時としてはかなり最先端な顔ぶれで、邦画らしからぬ娯楽大作を作ろうって意思がビシビシと伝わってくる。

 

公開の1990年当時、たぶんシネセゾンで鑑賞した記憶がぼんやりとあったが、内容はほとんど覚えていなかった。地獄極楽丸のネーミングと謎の刺青男くらいはなんとなく印象に残ってた。

 

内容は、当時の惹句にあるように「痛快・超時空活劇」だ。

高島政伸が演じる無敵の山賊地獄極楽丸をはじめとして、伝法な口調が可愛い安田成美の鉄砲お百合、謎の金塗りの平幹二朗東映忍法時代劇から抜け出したような成田三樹夫、そして監督の永遠のヒロイン鰐淵晴子が、それぞれの役を外連味たっぷりに演じていて、最初から最後までエンターテインメントに徹しているのが、観ていて痛快だった。

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邦画らしい恋だのを語るシーンは退屈だったけど、全体の中では添え物みたいなもんで、豪快な地獄極楽丸の殺陣、鉄砲お百合との掛け合い、時空を超えたジパングでの活劇が次々と展開され、あっと言う間にエンディングだった。拳銃を仕舞う際にちらりと覗く10代の安田成美の太股もなかなかに素敵だった。

今風の洗練は一切ないし、SFXだった今見ればちゃちだけど、創作の力強さと、画作りの高い技術は、今でも色あせていない。

ジパングに到着してからジパング王と女王の居る城の最上階を目指すシーンのカメラの動きなんて、ドローンのないあの時代どう撮ったんだろうってくらいの高さを水平に移動する。このシーンの空間処理はなかなか凄いなと感じた。ちなみにこのシーンでは秋吉満ちるが歌らしきものを唄っていてなかなか贅沢な脇役感を醸している。

 

で、『無限の住人』への影響は、冒頭地獄極楽丸が100人の追っ手を相手に、ギミックあふれた数本の刀をつかって繰り広げる大立ち回りの面白さだろう。

このシーンと、その後の青い忍者との立ち回りは、爽快で痛快だ。狭い場所、広い場所、山道と次々と走り抜けながら、短剣、長刺し、仕込み刀など次々と得物を変えて斬りまくる。

時代劇の面白さの一つは間違いなくこうした斬り合いだ。緊迫感溢れる一対一の真剣勝負も捨て難いが、スクリーンを縦横無尽に駆け巡る一対多の対決は、映画的な面白さだ。

原作の作者も、さぞやこの爽快感と奇抜な斬り合いに心踊らせたんだろうな。

まあ、原作は未読なままだけど。

 

理屈や構造、ストーリーの含意や深みで楽しむ映画や、感情の襞を刺激され熱い感情の動きを生む映画も良いが、こういう単に爽快な気分を味わう映画も悪くない。

いや、これはこれで楽しい。

スクリーンってのはそういう映画のために、広いんだとも思う。

 

さて、この映画を経て書かれた原作をもとにした、どうやら本気らしい三池監督の映画『無限の住人』はどんな感じで仕上がっているのか。

明日鑑賞してきます。

『夜は短し歩けよ乙女』 映画 君と一緒に夜の京都を冒険したい

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黒髪の乙女がだれだけキュートか、それがポイント。

彼女の歩く先に待っている世界のワクワク感とアニメーションの動きが楽しい映画だ。

 

湯浅監督の作品の中では、実は『ケモノヅメ』が一番好きで、あの爆発的で芸術的な動きをどこかで期待していたので、映画の冒頭では少し肩透かしをくらったような気分になった。

しかし、湯浅監督と森見ワールドの幸福な融合により、日常とちょっとずれた不可思議な世界が、圧倒的な存在感と多幸感で目の前であれよあれよと展開していくにつれ、スクリーンをみてるだけでずっと幸せな気分になれた。

偶然で世界を広げていく乙女と、必然でしか人と繋がれない頭でっかち自意識過剰な愛すべきぐうたら男とのご縁ができあがっていく展開をニコニコしながら見守っている、これがこの映画の正しい楽しみ方ではないか。

 

傑作『マインド・ゲーム』のような怒涛の動きやイメージの炸裂はないけれど、他の正統的アニメーションのような動きとは違う動くことの快楽、登場人物も小物も背景も関係なくアニメーションであることの本質的な快楽を、鑑賞中ずっと味わせてくれる。

黒髪の乙女がずんずんと歩くことそのものが、映画の快楽になり物語は大きく展開する。

 

原作の改変?改悪?

目の前にあるものは、原作の世界をアニメーションとして解釈したもので、改変でも改悪でもない。ちょっと抜けてる一本気な乙女がキュートに、京都の夜の冒険を歩き抜けていく楽しさ、それがこの作品の本質だ。

 文字で描かれた世界をさらに広げる、ゲリラ演劇のミュージカルパートの音楽の楽しさはこの映画でしか表現できない。

ロバート秋山のパンツ総番長の歌声は、聞いてるだけでにやけてしまうじゃないか。このキャストは正解だ。

 

原作で色濃い京都の街であることの意味や空気は、残念ながら映画の中では薄い。

それでも乙女が歩き、先輩がぐずぐずと屁理屈を捏ねなが些細なことには積極的な不思議な行動力を発揮する街は、独特の世界として描かれている。

なにより春夏秋冬が一夜で過ぎていく街の姿は、背景としてではなく、一人の登場人物として映画の中でその存在を主張している。

 

あっと言う間の90分。

アニメーション映画としての快楽を堪能し、同時に乙女と先輩のご縁の始まりにキュンとなって柔らかい心持ちで席を立つことのできる映画。

人生は短いんだし、こんな映画体験は買ってでもするべきだ。

『マジカル・ガール』 映画 チラ見せの魔法に魅せられて男は恋に落ちるんだよ

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魔法少女の美女が、現実に翻弄される物語かと思ってた。

 

12歳の学生と教師のファーストシーンの不穏な緊張感、一転流れる聞き覚えのあるような日本のアイドル歌謡のイントロと鏡に向かい踊る短髪の少女の後ろ姿。

これだけで、この映画の他にない手触りに心は鷲掴みされ、スクリーンから目が離せなくなった。

 

日本のサブカルに大きく影響された設定、極力説明を排した物語の展開や演出が、映画に深い奥行きと広い世界を与えていた。

鑑賞した誰もが語るように、この映画は多くを語らない。意図的に画として見せない、台詞として説明しない部分が数多くある。

観客は、物語や人間関係や過去を想像し、余白を埋めるようにして映画を観ざるをえない。だからこの映画は観客を選ぶ。

余白を埋めるそれぞれの想像が、物語を深くし世界を広げるから観客一人ひとりが受け取る感触は、異なっていく。

私には、12歳の二人の少女の魔法、呪いなのかも知れないが、に囚われた二人の男の愛情の物語だった。

 

12歳の少女の瞳に射抜かれた男達は、それぞれの方法で少女の願いを叶えようとする。

失業中の父は金策のために女を脅迫し、少女のために人を殺めた男は出所後またも女のために男を排除しようとする。

 

私には、この映画の主人公はバルバラの魔法に囚われた初老の男ダミアンだ。

揶揄われながらも少女の視線に捉われたダミアンは、バルバラが精神を病んでいく成長の過程のどこかで彼女のために罪を犯す。何をしたかはわからないが、彼はそのことを後悔していない。

彼女のために生きられることを悦びとすら感じているのかもしれない。だから出所して彼女に再会してしまうかもしれないことを怖がるのだ。

なんて寂しい愛だろう。

再び出会ったバルバラのため男と対峙するために身支度をするダミアンのダンディーでロマンティックなこと。

その姿で静かに男と対峙し自分の命を投げ打つような提案をしながらも、バルバラが普通に男とセックスしたことを聞いた瞬間にそれまでの冷静さを失ってしまう。

なんて狂おしい愛だろう。

病室のバルバラに悲劇の元になったアイテムを渡す時のしぐさと行動。人生のすべてをあの時の少女の魔法に捧げた男の献身に込められた重さ。

なんて静謐で激しい愛だろう。

彼の生き様と、彼をそのようにまでさせた魔法少女の力に私は心を震わせた。

 

繰り返しになるが、語られない多くの事柄を埋めるように鑑賞することで、異なった見方ができる映画だ。

とかげの部屋での行為やバルバラに仕事を紹介する女との過去、バルバラの体に残る印の理由などから、諧謔と快楽の物語として堪能するも良い。

余命少ない少女の想いを叶えようとする父と娘のすれ違った想いに涙する、親娘の悲劇の物語として咽び泣くのも良い。

余白を想像することを拒否し、分かりづらいだけの思わせぶりで破綻した物語だと切り捨てるのもかまわない。

 

男達が少女の魔法に魅せられたように、観客が映画のマジックに魅せられて、それぞれの物語に心を揺さぶられる。

映画を観ることの快楽がここにある。