『ボラード病』 吉村 萬壱 本 読書メーター
不快ではない。薄気味悪いのだ。満面の笑顔のすぐ裏側に、どす黒い本性が滲み出ている瞬間を目にする気色の悪さだ。故郷は美しい。私達は仲間だ。絆。共感。書いているだけでも吐き気を催す催す私には共感できない言葉が溢れているあの日以降の日本の写し鏡だ。完全な健全も理想の知恵もない価値観のカオスが渦巻く現実を、耳障りの良く前向きな善意で覆い被せた社会の有り様の醜悪な不気味さを否応なく突き付けてくる。右も左も呪詛の言葉から逃げる事はできない。ボラード病から日本人は誰一人無縁ではいられない。逃避できない絶望がここにある。
追記
いとうせいこうは『ノーライフキング』から好きだしラップも格好良いと思うけど、この解説、とくに後半の今の政治への言及と読みが残念でならない。右だって左だって同じように気持ち悪いのは分かっていて、敢えて右翼化する社会の薄気味悪さと繋げたところが不快だ。 むしろ平和だの市民だのお花畑の「理想」の方が同調圧力と一方的な価値観の矯正を強いるこの世界に近いと個人的には思う。理想を綺麗な言葉で人に広げようとした時点で誰もがボラードの世界の加担者だ。
『夜明け告げるルーのうた』 映画 好きな事は好きだと叫べ そうすれば万事OK!
湯浅監督久しぶりのオリジナル長編アニメーション映画。
やっぱり動くことが楽しい。スクリーンに展開する色、響く音、映画館でアニメーション映画をみることの悦びをたっぷりと堪能できる作品だった。
中学生の主人公たちが人魚ルーとの交流を通して成長する物語がすがすがしい。
影の中でしか生きられない人魚と、影に覆われた街で鬱積していた中学生が、音楽を通して触れ合って、自分の好きなことを「好きだ!」と言えるようになることで、明日へ一歩を進めていく。なんて気持ちのよい映画なんだろう。
同時に、大人のそれぞれの勝手な行動が理不尽な邪魔になってルーと主人公たちに共感していた気分に水をさされ怒りが湧いてくるが、邪魔になる行為の理由はそれぞれに理解できる物でけっして悪気があるわけでないのが、物語の最後のハッピーエンドにつながっていく。
誰もがそれぞれの想いや理由で良かれと思っている事が、他の人たちには障害になっていくことを示しながら、きっちりとそうした想いを一つひとつすくっていく展開は、監督の人への優しい視線によるものだろう。
タコ婆の怒りが、彼のキス(噛みつき)で消えていったシーンや、主人公の祖父が、ルーたちのために傘を開き、母と想いをつなげていくシーンには、涙が流れた。
何よりも物語の最後に登城人物と観客の全員に希望を与えるのが、歌と踊りとアニメーションの動きと溢れる光であることが嬉しい。
ダンスを夢見て都会に出たが、帰郷して外洋養殖で成功した青年。
モデルとして都会に出たが、帰郷して町内放送のウグイス嬢になりながらこっそりとカフェを作る夢を実現させている憧れの女先輩。
バンドに夢をかけた男性とダンスを夢見る女性は結婚し都会に出るが離婚し、男性だけが街に戻り慣れない肉体労働に汗をかきながらも息子をまっとうに育てている。
夢を見て、挫折して、それでも受け入れてくれる影の街日無し町で、それぞれの生活を送り過ごしている人たちも、好きをモチベーションにして行動するルーと触れることで、踊り出し楽しい時間を遊び、街の危機を一緒に乗り越えることで、今までの街が光溢れる街に変わっていく。
光溢れる街では人魚たちの姿は見えなくなったが、その代わりに人々の心のなかに人魚は生きている。みんな人魚になったとも言える。
大人ではなく、子供にこそ見て欲しいと監督がこの作品を作っただろうことが伝わってくる、とても希望にあふれた物語だ。
好きって気持ちで行動すること、たとえ才能に限界があったとしても、好きって言える気持ちを持ち続けることで、影のある世界は光の溢れる世界に変貌する。
アニメーションの動きの楽しさ。希望にあふれた優しい物語。
劇場を後にするときには、幸せな気分で明るく明日を楽しみにできる、そんな気持ちのよい映画だった。
追記:
ぶらぶらとほかの人のブログ読んでたら、湯浅監督の次回作、Netflixで『デビルマン』だと知った!
シルエットのデビルマン『ケモノヅメ』行くんか??ガーッと行くんか?
楽しみすぎる。
『クヒオ大佐の妻』 舞台 東京芸術劇場シアターウエスト 愛と幻想の狂気が安アパートで静かに炸裂する
吉田大八作・演出。
1970年代から90年代にかけて、カメハメハ大王やエリザベス女王の親類であると偽り、結婚詐欺を繰り返した「ジョナサン・エリザベス・クヒオ大佐」と名乗る実在の日本人をモチーフにした作品。クヒオ大佐の妻を主人公に据え、狭いアパートで彼を待ち続け、夫はアメリカ海軍のパイロットだと言い張る妻の姿を描く。
公式: 舞台『クヒオ大佐の妻』公式サイト
吉田大作は、映画『クヒオ大佐』も製作しているが、登場人物はクヒオ以外は直接リンクはしていない。
稀代の結婚詐欺師クヒオ大佐の妻という存在を、宮沢りえが熱演していた。
普通に考えれば嘘だとすぐわかるクヒオの話だが、それを信じた/信じる女の心情ー愛と狂気ーを静かに時に狂的に演じる彼女の姿から最後まで目が離せなかった。
映画が、嘘を信じさせるために間抜けなくらい一生懸命だった男のリアルな話だとすると、その男を心のそこから信じることに決めた一生懸命な女のリアルと妄想の域を超えた世界の話だった。
日常的すぎるくらい日常的な普通のアパートの一室、その裏に広がっている幻想の愛に囚われた女の広大な妄想の世界と巻き込まれる男女たち。観劇中その域が自然に消えていくことに戸惑うが、気がつけば、この足元の不安定な感じこそが、この舞台の伝えたいことだったんだと気づく。
青臭い政治的ないくつかの台詞やちょっと舞台を意識すぎな演出などに鼻白む瞬間があったり、観劇後すぐはポカンとしてしまったのも正直なところだが、だからこそいったん冷静に舞台を降りかえってみるとその面白さに気づくことができた。
ある意味あとを引く舞台だったと言える。
女の愛と妄想と狂気と純情。
カオスな世界が、美しく静かな宮沢りえの表情で幕を降ろした瞬間がとても強い舞台だった。
宮沢りえの舞台は、3月の『足跡姫』に続く今年2度目だったが、異なる質感の存在を見事に演じきっていて、改めて凄い女優だと実感した。
シアターウエストのような小さな小屋で、至近距離で彼女の目の表情を見ていたら、そのまま彼女に取り込まれてしまうような錯覚を感じた。
そんな彼女に触れるだけでも十分に価値のある舞台だ。
吉田大八と宮沢りえの対談。
宮沢りえの女優としての感性に触れることができるインタビュー。
『ケシゴムは嘘を消せない』 白河 三兎 本 読書メータ
数多ある正論のひとつ、見えないものこそ事の本質である、てのは耳障りが良いだけの嘘で、逆に目に見える確かなものこそ信じるに値するわけでもない。見えようが見えまいが関係ない、相対している自分にとってそれがどんな意味を持って、どんなものであるのかだけが大切だ。透明女も元妻もどちらも所謂普通じゃないけど、主人公にとっては等しく真摯に向かうべき相手だ。そんな主人公の、ぐうたらな癖に正直で、我儘な女の苛つく言動に素直な心を感じ好意をもち、弱っちくてずるい癖に意地をはるような、捻くれた真っ当さにとてつもなく共感した。
「馬鹿がのさばるこの世界」 世の中
癌患者の受動喫煙可能な場所での勤労についての、大西議員のヤジについてのニュースが囂しい。
大西議員は過去のヤジからも、センスもなく機転の聞かない旧態の政治家だと思うし、下品で好きではない。
が、今回の発言については、彼擁護ではなく、彼の言葉を巡るあまりの馬鹿馬鹿しさになんか一言書いておかないと気が済まない。
三原議員の発言を聞いての彼のヤジ「癌患者は働かなくていい」が、癌患者の勤労を否定し、患者そのものを否定する発言とされている。
馬鹿が難癖をつけている以外の何ものでもない。
やり取りの流れを聞けば、またあの場が受動喫煙環境を巡る会議であることも考慮すれば文脈から「癌患者がわざわざ受動喫煙に苦しむような場を選んで、働かなければいい」という意味になるじゃないか。
癌患者の勤労否定の発言にしか聞こえないとしたら、国語はゼロ点だ。
大西議員の言葉が足りなかったとしても、普通の会話じゃないか。ヤジなのは下品だけれど。
文脈から意味を読む必要があるのか?との疑問や怒りもあるだろうが、会話や議論ってそういうものだろ。裏を読めなんて事を言ってんじゃない。三原議員の言葉に対してのヤジなら、そう取るのが普通だ。
これをまたマスゴミの皆さんが得意がってとりあげてるから始末に悪い。いつものフレームアップすらしない。言葉ヅラだけ並べ、さも当然のように、おのれの読解力のなさを晒し続けている。
つまり視聴者のほとんども、読解力のない馬鹿ばっかだ。
それが、とてつもなく気持ち悪い。
繰り返すが大西議員の擁護じゃない。下品な議員は淘汰されれば良いと思ってる。
が、馬鹿が溢れ、おのれの馬鹿さを棚に上げ、得意がって正義ヅラして相手が反論できないような正論を振りかざして攻撃力しているのが気持ち悪くてしょうがないんだ。
文意を汲み取れない自分が正義の基準で、そこにはまらないモノは悪だとし、感情的に弾級する母親的社会の弊害と気色悪さ極まれリだ。
感情的でヒステリックな感覚と、優しさと平等で馬鹿を擁護し増殖させる。
別にマッチョな父親的社会の復権をって言ってるわけでもないので誤解なきよう。
あの会話の流なら、そうした場所でしか癌患者は働く場所がないのか、どう対応すれば良いのか、受動喫煙の是非でなく選択できる仕組みは何かなどに議論を発展させるべきもので、飲食店の受動喫煙を完全に実施しようとの思惑とは離れたものになるはずだ。
ヤジるなら最初から飲食店の全面禁煙ありきで癌患者をその結論のダシにするような事こそ、癌患者を利己に利用してる事をこそヤジるべきだ。そんなつもりはないと返された、だったらそれに気づかない貴方は馬鹿だぐらい言っても良い。
私は、喫煙者だ。映画や本の世界での喫煙の文化や描かれ方の様子に憧れたり素敵だと思ったりする。
こう書くと、ヤニ厨のキチガイ擁護だと指摘する嫌煙厨が出てくるかもしれない。
それこそ馬鹿極まれりだ。
この文章の流れ、文脈では喫煙の良し悪しはテーマとしてあげていない。
感情的でヒステリックな「喫煙」と言う単語への条件反射でしかない。
文意が汲み取れないのなら、喫煙者だろうが嫌煙者だろうが、馬鹿だ。
文脈や会話の流れの中で、言葉の意味することを理解出来ない馬鹿が正しいとなってしまう、この気持ち悪さがテーマだから間違えないように。
議論をする、ロジカルに言葉をやりとりするってことには学習や訓練が必要だ。
その事をしてこなかった、努力をしてこなかった馬鹿に、普通の人があわせる必要はないし、そんなレベルの低い状況を嘆き、なんとか変わらないかと思うことは当たり前だ。
ほんと、馬鹿が平気な顔してのさばってる今の日本は気持ち悪い。
幼稚園に戻って恥って概念を学び直して欲しいものだ。
『君の膵臓をたべたい』 住野 よる 本 読書メーター
「仲良し」の二人の関係が始まるあたりは、僕と彼女の言葉のやりとりにニヤニヤしていたが、後半は泣きっぱなしだった。難病ものだからとか泣くための設定だからじゃない。僕と彼女それぞれの表と内との自分の有り様へ考え方、相手への想い、僕が明確にしたくなかった人としての感情が本人の意思を超え顕になっていく様や、それをおののきながら受け入れていき認めていく決意に、10代の自分の記憶が重なって涙が溢れた。僕を変えてくれた彼女の存在と、彼女自身が感じていた事、揺れ動く弱さと強さが、さらに心を揺さぶり続けた。大切な一冊だ。
『スペードの3 』 朝井 リョウ 本 読書メーター
自意識ってやつは厄介だ。ぐるぐると頭の中で答えの出ない独りよがりな思いが渦巻いて、周りのことも自分のフィルターでしか考えられなくなる。ちょっとした妥協や寛容、自分を許すことができれば、少しは軽い気持ちになることができるのに、半世紀近く生きていても簡単には乗り越えられない。それができないからこそ人間で、日々生きることの苦しさであると同時に楽しさでもあるのだけれど。作者はこの本を通してそんな気分の私でも、心を軽くしてくれる希望を与えてくれる。決して消えることはないけれど受け入れて生きていく事の可能性を。