『東京難民 (上)(下)』 福澤徹三 本 読書メーター

東京難民(上) (光文社文庫)

東京難民(上) (光文社文庫)

 

 主人公の転落の姿は、そのまま私の姿だ。上巻の些細なきっかけで『普通』から外れ芋づる式に堕ちていく姿、最悪な底辺に転落しつつも格好をつけ優しげで余裕のある安易な判断をしてしまう姿に、学生時代の自分が重なってしかたなかった。もう四半世紀が過ぎてしまったが、月末の所持金に悩み小麦粉一袋と卵ワンバックで一週間を乗り切る生活を送った事は先日のように思い出せる。人はほんのちょっとした事で『普通』から転げ落ち、簡単には這い上がることはできない。主人公が甘いと言うのは簡単だが、この恐怖は日本には何処にだって転がっている。

『郵便屋さんちょっと2017 PS. I love you』 舞台 つかかどうかは関係ねえ こともないか

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新宿 紀伊國屋ホール

 

つかこうへいの戯曲とエッセイは、80年代10代だった私の身体の一部だった。

つかこうへいと栗本慎一郎村上龍で、自分の身体と思想はできていた。何かといえばそう口走ってた。

自意識過剰でニューアカ、サブカル気取りの、田舎の嫌な文系高校生だ。

 

つかこうへいの戯曲を初めて読んだのがこの『郵便屋さんちょっと』が収録された『戦争に行けなかったお父さんのために』だ。

自意識と社会の中であるべき事への過剰な追求、ケレン味とそれをまとわざる得ない強烈な照れ、暴力性と愛情が表裏一体になり絡み合ったマイノリティの複雑な愛。革命を口にして生きたはずの周囲への絶望とすがる希望。自意識と共同幻想とギャップの間でもがく人のサガと業。

脳味噌と体中が痺れた。

馬鹿と文化がわからない田舎モンばっかりだと周囲に絶望していた自惚れたガキには、強烈なストレートパンチだった。

地方の一般家庭の高校生は、生のつかこうへいの舞台を観ることはなんてできるはずもなかったし、大学入学で上京してからもたった一度だけ、牧瀬里穂が観たいという理由で西洋劇場で『幕末純情伝』を観ただけだ。北区の舞台にもあえて行かなかった。

なぜなら最高の舞台は戯曲を読んで頭の中に構築されていたから。これ以上の傑作が本当に上演されるのか不安で舞台には行けなかった。

もちろん今は大後悔しているのは言うまでもない。

 

そんな戯曲がつかじゃない人の手で再演される。しかも一時代つかと共に歩んだ元編集者の出版社社長の熱い支援を受けてなんてことに、期待が高まると同時にまったく期待できないという両極端な気分を抱いてしまうのはしょうがないじゃないか。

 

オリジナルの戯曲はあくまでも原作で、演出の横内謙介が上演台本を書き、現代のエンターテイメント舞台として、頭から終わりまであっと言う間の小劇場でのエンタメ大舞台に生まれかわっていた。

人と人を結ぶ郵便屋だからこそ、運ぶ価値のない手紙を書くようなヌルい書き主を批判し、純粋に吉報を待つ阿呆に希望を与える配達を考える。例え手紙を盗み読んでも。という主人公達の行動と世界は同一だが、学生運動や政治の話しは後退し、愛の物語が大きく広がっていた。

 

現代につかが蘇ったのか?この脚色によってあの当時の小劇場の劇団の熱、観客の快楽は呼び戻せたのか?

 

つかこうへいが蘇ったかどうかはわからないし。正直どうでも良い。すでに死んだ作家だ。最高の舞台は記憶と共に自分の頭の中に、彼の言葉は本としてすぐそばにある。

 

演劇の熱や観客の快楽は間違いなく今日の劇場にあった。

テーマだとか心に響く何かとは関係ない。

喋って動いて泣いて笑って歌って踊って、身体を使って一枚の板の上を縦横無尽に使って観客を引っ掻き回す。上品だとか高尚な技術や手法や高い文化性や評価とは無縁に、ただ笑わせる泣かせる驚かせる喜ばせるためなら何だってやる、ベタだろうが浪花節だろうが舞台と身体の全てを使う。

楽しくなはずがない。

観客の反応に怯え、だからこそ徹底的に挑発し、あらゆる手法を使ってこれでもかと舞台を作っていったつかこうへいらしいと言えば、まさにつかこうへい的だ。終演後くじ引き大会やる劇団なんてあとにも先にも彼んとこだけだ。

その姿勢、その演技、その志の真摯さだけが、舞台の上で問われるのも同じだ。

 

今日は学生優待日だったらしく、周りは10代の学生だらけ、しかも10人を超える大集団で、正直なちゃんと感激できるか、その無駄口を上演中も続けるようなら叩き切るぐらいの心中でいたが、幕が開いた途端に彼ら彼女らも全員が、大きく笑い驚き拍手をしていた。

こんな体験したら後が大変だぞ。

なかなかこの熱を与えてくれる舞台はそうないから。

色々な意味で面白い舞台はたくさんあるが、この熱とサービス精神に溢れたエンターテイメントを別な場所で探すのは難しい。

それでも生の舞台にしかない観劇の喜びを一人でも多くの10代に知ってもらえるのは嬉しい。

彼らを喜ばせるため、彼らにまた別の形の舞台の快楽を経験させるため、そんな動機が一部になった新しい舞台の流れができてくれれば、今以上に舞台の世界が豊かになる。

少なくとも一部のタレント事務所の都合でやたらと増える、原作ありの舞台もどき、舞台らしきものが相対的に後退してくれるだけでも嬉しい。

 

上演期間も短いし、週末には東京では千秋楽だが、日曜の昼にはまだ空席があるらしい。

ぜひ体験してほしい。

『戦争で死ねなかったお父さんのために (1979年) (新潮文庫)』 つかこうへい 本 読書メーター

戦争で死ねなかったお父さんのために (1979年) (新潮文庫)

戦争で死ねなかったお父さんのために (1979年) (新潮文庫)

 
舞台『郵便屋さんちょっと2017』観劇に向けて再読。10代の頃、自分の体(頭・言葉)は、つかこうへいと栗本慎一郎村上龍でできているとイキっていた。それぐらいに大きな影響を受けた1人。今読んでもあまりにも真摯な姿勢と、時代に真っ当に向き合う人への偏愛が刺激的。学生運動、生まれつきの格差、人の性根の卑しさへの想いが、照れ隠しも兼ねたケレン味を帯びた舞台的な大仰さの後ろに伝わってきて心に響く。革命だ愛だと口にする事への真っ直ぐすぎる責任感、田舎モンがどん百姓がと叫ぶ暴力性、繊細な眼差しのギャップが刺激的だ。
 

『さくらの唄(上)』 安達 哲 本 読書メーター

さくらの唄  文庫版〈全2巻〉完結セット【コミックセット】

さくらの唄 文庫版〈全2巻〉完結セット【コミックセット】

 

基本的に漫画はレビューしない事にしているが、この本は読んだ事を記したい。下巻の展開の予兆はあるが、何者でもない内向的な少年の日常、オナニー三昧の年頃の日々の鬱屈としながらも朗らかでもある青春時代がよく描かれてある。『悪の華』への影響が大きいのはよく分かる。10代で読んでいたらトラウマになっただろう事は間違いない。

『メッセージ』 グレイなんて人型してるだけ、どれだけマシか?!

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不思議なテンションの映画だ。

爆発シーンは一度しかないのに、最後まで飽きず目が離せない。

予告編を観た人たちの中一部の人が地雷臭いと感じるのが納得できる、静かながらも知的な興奮に溢れた理屈エンターテイメントな映画だ。

 

異星人とのファーストコンタクトと言えば、誰もが『未知との遭遇』を思い出すだろう。あの映画にあった活劇的な展開や、何が起こるのだろうと言うミステリーは、この映画にはない。

この映画にあるのはストレートにファーストコンタクトの際に発生するだろう数々にまつわる、知的な興奮だ。

スピルバーグが描かなかった、異星人との意志の疎通のためのプロセスそのものが生む興奮だ。

数多い古典SF、例えば『星を継ぐもの』などを読んだ時に感じる、仮定ながらも完全に未知な存在を自分たちの知識と勇気を総動員して理解していく様に脳味噌を揺さぶられる快楽を、映像で構築した事がこの映画の最大の見所だ。

数学で習う数式の美しさや、証明の過程のロジックの展開の気持ちよさ、完了に至るまでの段階を楽しむ行為に似ている。

安心して良い、高校の数学で3しか取れなかった私でも理解でき楽しめるレベルの話だから。

 

頭でっかちで屁理屈をこねているだけの退屈な映画ではない。

姿形も異なり思考の基盤も共有するものがない相手との言語による交流の鳥羽口を見つけようと模索するプロセスそのものが、この映画の一番の映画的興奮のポイントで、そのプロセスを映像で示し、映画でしか体験できない形として見せる事に拘っているからこそ、スクリーンに対峙した私達は最初から最後まで目が離せない。

『コンタクト』が見せたような宇宙的規模のヴィジュアルはないし異星人の容姿に驚くような斬新さはないが、脳内に広がる世界は同じ様に豊かだ。

 

思考的、哲学的な主題を最後まで徹底して魅せながら、エンターテイメントとして成立させ楽しませてくれる映画はそれほど多くない。

異星人の話す言葉、書く言葉を読み解き、英語に翻訳していく過程をスリリングにドラマチックに展開していく物語の運びは、監督のパラノーマルな資質をよく表している。

 

重力をコントロールする状況の見せ方、カナリアとその鳴き声、発声する音声ではなく書き示す記号が意味をなすはずなのに観客には一切理解ができないただの墨で書いたよな丸でしかない事、その丸のニュアンスに意味を読み取りシステムをつかい翻訳の仕組みを組織として作って行くプロセス、意志の疎通が一部かなったと感じたからこその微妙なニュアンスが不明なことによる危機。言葉をもとに読者に想像させることでテンションを作っていく小説ならよくある物だか、映像で見せていく中でディテールでの演出、人の思考の許容のプロセスを見越した見せる事見せない事のバランスや、静的な画の中での存在感の構築など、徹頭徹尾思考小説の快楽を映画としてのエンターテイメントにまとめあげようとしている様子が美しい。

 

同時に、主人公が想起する彼女に関する物語の意味が、すこしずつ明らかになっていく描き方が、憎たらしいくらいに観客を弄んでいて心地よい。

あるポイントで、この話はもしかすると?と思わせながら安易には明らかにせず、だからこそ真の意味をことさら大仰にしないまま明確に提示されたときに感じる納得感がエモーショナルなものでなく、知的なものになり映画全体の空気とマッチしてファーストカットから流れる物語の意味を改めて考えさせられ、『あなたの物語』と名付けられた原題の意味を問いかけられる。

 

存在の異なる絶対的な他者の言語体型を理解し頭の中にそのプロトコルを生成する事で主人公が得たような事が可能になるかどうかは分からない。

が、彼女が得た力と希望は最初から映画の中に示されていて、主人公と時を共にしている観客は、少なくとも鑑賞している間はこの過程の結果とそのもたらす物に心を打たれるだろう。

思考的な映画でありながら、出来る限り大きなスクリーンで鑑賞をお薦めしたい不思議な映画だ。

 

 

劇団イキウメ 『天の敵』 演劇 東京芸術劇場シアターイースト ごま油香る、食欲と脳味噌を刺激する舞台

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劇団イキウメ。

徹底して菜食にこだわる料理家とALSにかかった余命5年のジャーナリストとの会話の中から浮き上がってくるのは、料理研究家の驚くべき遍歴。彼は122歳だった。健康によい完全食とは何なのか。

 

冒頭の料理番組収録シーンで、牛蒡の金平と入り豆腐ご飯を実際に調理する時のごま油の香りが劇場に広がり胃袋を掴まれた。上手くて美味い演出だ。

胃袋が虜になっている間に、食べる事、生きる事へと物語が広がり、最後まで緊張感の途切れない密度の高い舞台だった。

 

人にとっての完全食を追い求めるうちに行き着いたある物、命の塊である食材を身に取り入れる事で、永遠の若さを手に入れた男の孤独と苦悩から見えてくるのは、食物連鎖から外れてしまった人間の存在。自然から逸脱してしまう人間と言う存在の有り様。

食べる事だけではなく、人工の太陽さえ人は作ってしまうのだ。

天の敵は、永遠の存在になった料理家だけでなく、老いへの恐怖から倫理を超えて永遠の命を求めてしまう行動をする人そのものなのだと問いかけてくる。

例え完全食を求める最初の動機が、飢えに苦しむ貧しい人たちが健康に生きるためだったとしても、結果は傲慢で不幸としか生まない。

ごま油の香りに、腹減ったなと食欲に取り憑かれるように、若くありたいなと願う事、人の欲望じたいが敵になる根源なのだと実感させる演出は見事だ。

 

主人公にインタビューをするジャーナリストが最初は122歳である事など鼻で笑い、途中から事実として受け入れながらも倫理の視点から抜け出せない。インタビューの終わりには、圧倒的にリアルになってしまった倫理を外れた事柄を無理に笑いに変える事で目の前の信じられない事実を虚構にしようとすらするが、主人公のまっすぐな瞳の前では転化できずに終わる。

物語の終わり、余命5年の我が身と妻子供の事を思いながらの言葉にできない苦悩と、彼を包み込む妻の最後の一言は、観る者の心にも染み込み、結論の出せない共感と認められない自分の欲望を突きつける。

明日が東京の最終日だが、一人でも多くの人に観てもらいたい舞台だ。

 

役者が良い。

特に主役の浜田信也と小野ゆり子が素晴らしい演技を見せてくれる。

どんな存在なのか明らかにされない劇の前半では浜田のまばたきしないようなぶれない視線が不穏な存在感を醸しだし、過去の回想の中では活き活きと輝く瞳と大声で笑う姿が良く似合う好奇心と探究心に溢れた男を実感させる。過去が現在につながった後は、冒頭の一直線だった視線の空気が変わり心情を表す意思の溢れたものになっている。

こんなに上手い俳優を知らなかった自分が残念だ。

小野ゆり子も女子大生から80歳の老婆まで演じきり、浜田の演技を正面から受けて返す柔らかな芯の強さを熱演していた。どこか儚げな空気感が浜田の存在を受け入れた役の深さを体現していた。

他の8人、イキウメの男優、客演の女優それぞれが時にユモーラスに時にシリアスに物語に最適なあり方で演じている。

 

空腹感と頭の満腹感を抱え、余韻を抱えながら劇場を後する幸せな体験だった。

『ボラード病』 吉村 萬壱 本 読書メーター

ボラード病 (文春文庫)

ボラード病 (文春文庫)

 

不快ではない。薄気味悪いのだ。満面の笑顔のすぐ裏側に、どす黒い本性が滲み出ている瞬間を目にする気色の悪さだ。故郷は美しい。私達は仲間だ。絆。共感。書いているだけでも吐き気を催す催す私には共感できない言葉が溢れているあの日以降の日本の写し鏡だ。完全な健全も理想の知恵もない価値観のカオスが渦巻く現実を、耳障りの良く前向きな善意で覆い被せた社会の有り様の醜悪な不気味さを否応なく突き付けてくる。右も左も呪詛の言葉から逃げる事はできない。ボラード病から日本人は誰一人無縁ではいられない。逃避できない絶望がここにある。

 

追記

いとうせいこうは『ノーライフキング』から好きだしラップも格好良いと思うけど、この解説、とくに後半の今の政治への言及と読みが残念でならない。右だって左だって同じように気持ち悪いのは分かっていて、敢えて右翼化する社会の薄気味悪さと繋げたところが不快だ。 むしろ平和だの市民だのお花畑の「理想」の方が同調圧力と一方的な価値観の矯正を強いるこの世界に近いと個人的には思う。理想を綺麗な言葉で人に広げようとした時点で誰もがボラードの世界の加担者だ。