『ハクソー・リッジ』 映画 君は生き延びることができるか?

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第二次世界大戦沖縄戦で米軍に実在した銃を持たず参戦した戦士の実話。

銃を持たず激戦の戦場に赴き、何十人という負傷兵、その中には日本兵も含まれた、を救出したと言う事実に驚かされる。

本人は生前頑なに映画化を拒んだと言う。

彼の心情はわからないが、普通の映画化であれば拒絶したくなる気持ちも理解できなくはない。ヒーローや奇跡の人として扱われたいからの行動ではなく、あくまでも信仰の結果としての事実でしかないことを、娯楽の中で美化されたり誤解されたくないと言う真摯な思いだろう。

 

沖縄戦、オーストラリア人監督、中国資本が幅を効かす現在のハリウッド製作の映画。ちょっと考えるだけで、醜悪で残酷な日本が貶められ、宗教に裏付けられた正義が実行される事で感動を生むリアル風味のプロパガンダ色の強い戦争映画なのだろうと思っていた。

が、この映画はまるで違っていた。

狂的な信仰を貫いた男の戦場での行いの物語だった。

狂った男が起こす狂った行動が正義を生み、感動させる映画だった。

 

己の信じる信仰から銃を持ち人を殺すことはできないが、戦争で同胞が死んでいく事に耐えられず、米軍兵として戦争に参加したいと熱望する。

この考え自体がすでに狂っている。信仰と言う理屈がなければ成立しない対極的な考えが自然に一つものになっている。

この狂った価値観を真摯に描き切った事がこの映画の一番の肝だ。

また、この映画は、政治的な価値観については一顧だにしない。

天皇陛下万歳と叫びながら突撃する日本人も非人道的な火炎放射器で日本人を人としてではなくモノとして燃やす尽くすアメリカ人も同質な存在として描かれる。

なぜなら信仰に基づく信念が生んだ戦場での感動的な奇跡を実現した男の存在を描く事だけが目的だから。

 

冒頭兄弟喧嘩で兄をレンガで殴りつけるシーン、その結果「汝殺すなかれ」の言葉が人生に深く刻まれるシーン、のちに妻となる看護婦との出会いのシーン、志願する前の生活のそれぞれのシーンですでに偏執的な性格が描かれるが、それらは全て肯定的に描かれるし観客にもなぜかポジティブに映る。

真摯で素直で少し不器用な好青年に見えるから不思議だが、良く考えれば気持ち悪い。

 

悲惨を極める戦場で、もう一人、もう一人と祈るように口にする姿は感動的だ。

しかしあの状況の中で、延々と諦める事なく人を救う事のみに専念する強さは狂気以外の何物でもない。

彼は神の声は聞こえないとはっきりと口にする。それでもなお信じる神の教えを守り通す姿は、神の在不在は、信仰の本質でなく、信じ貫く事のみが力を持つのだと気づかされる。

冒頭からラストの気高いシーンまで一貫して描かれるのは、この狂気と同質の信仰を貫く意思の強さだ。

狂気と言えば強すぎるのであれば、ありえないほどの徹底さが、結果として人に感動を与える。なんとも因果な映画だ。

しかし、突き詰めれば人の心を動かすのは過剰なまでの何かであるのだ。

そんな当たり前なのに、日常では隠されている事に気づかされる。

 

『平等ゲーム』 桂 望実 本 読書メーター

平等ゲーム (幻冬舎文庫)

平等ゲーム (幻冬舎文庫)

 

清濁併せ飲む事で人は生き生きと生活ができる。自分の中の暗い欲望や嫉妬心などを見ればその通りだとも思うが、青臭い部分では主人公の怒りにも共感する。全員の幸せのために守るべきルールを守れない悪い人間を監視するのは理想を維持するための必要悪だと、鷹の島に暮らしていれば、私はきっと主人公の提案に賛同するだろう。しかしその先に待っているのはソビエトのような監視社会であろうことも容易に想像がつく。結局理想のユートピアはどこにも無いという絶望しか感じない私とは違い、それでも理想を探そうとする主人公は若く強いのだと思う。 

『ローガン』 映画 そして、父になる

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ローガンの物語が終わった。

10年以上に渡り彼の姿をスクリーンで観てきた私達は静かに彼を送るしかできない。

彼の最後の物語が、守り抜きたかった『父』と守り通した『娘』と共にあった事が嬉しい。

 

R指定の過激な描写のアクションシーンも多いが、観終わった後に残るのはなんて静かな栄がだったんだろうという感触だ。

 

3組の親子が、登場する。

老齢に至り己のチカラをコントロール出来なくなり自らの子供達を誤って殺してしまった後悔に苛まれる親と同じく老齢により己の根幹となる力を失いつつある子の最後の道行。まるで老老介護だ。

その上、死に近づいた父から過去の行いを全否定するような怨嗟の言葉すら聞かされる。ヒーローであった二人が社会から祝福も葬送される事もなく、衰弱と圧迫により悲壮な旅を続けていく。その姿に胸が熱くなる。

何よりも心に焼き付くのは、スーパーマンのように明確に世界を滅ぼす絶対悪と対峙してスターになり社会に受け入れられたヒーローではなく、マイノリティへの迫害に抗いながら自らの存在を認めさせてきた『ヒーロー』だったX-MENの最後が、やはり誰にも見届けられることなくマイノリティ同士の闘いの中で、静かに閉じられる事だ。

もう一組の健全な市井の親子も、父は家族を守るために闘い子は父を見守り追っていくが、やはり社会から賞賛される事はない。

最後のローガンとローラの父娘も最後に心を通じ合うが、死に行く者のはマイノリティ達にだけ見送られ、人の近づかない森の中に埋葬される。

状況だけ見れば、あまりにも悲しい最後だ。

しかし、ローガンの道行きを見届けた観客の私達だけは知っている。

最後の瞬間に彼がローラから、力の使い方や存在の意味を説く導者として、彼女を守る守護者として、彼女へ明日を繋いだ父として、つまりヒーローとして受け入れられた事を。

娘に明日を繋いだ父として、大切な者にとってのヒーローとして満足して死んで行った事を。

ローガンは、始めから誰かに認められ賞賛されるヒーローになりたかったわけではない。

人体実験により産まれたモンスターだ。

その事を何よりも自覚し苦悩してきた彼だからこそ、父を守りきれずとも父と自らの希望を託した小さな存在が、彼の必死の行動を通して彼を認め受け入れ、大切な人として見送られた事に喜びを感じただろう。

 

ストレートなヒーロー映画ではないが、だからこそ真の意味でのヒーローの物語だった。

去りゆくローガンの心情を思い、この先事あるごとに見返したくなる映画だ。

『東京難民 (上)(下)』 福澤徹三 本 読書メーター

東京難民(上) (光文社文庫)

東京難民(上) (光文社文庫)

 

 主人公の転落の姿は、そのまま私の姿だ。上巻の些細なきっかけで『普通』から外れ芋づる式に堕ちていく姿、最悪な底辺に転落しつつも格好をつけ優しげで余裕のある安易な判断をしてしまう姿に、学生時代の自分が重なってしかたなかった。もう四半世紀が過ぎてしまったが、月末の所持金に悩み小麦粉一袋と卵ワンバックで一週間を乗り切る生活を送った事は先日のように思い出せる。人はほんのちょっとした事で『普通』から転げ落ち、簡単には這い上がることはできない。主人公が甘いと言うのは簡単だが、この恐怖は日本には何処にだって転がっている。

『郵便屋さんちょっと2017 PS. I love you』 舞台 つかかどうかは関係ねえ こともないか

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新宿 紀伊國屋ホール

 

つかこうへいの戯曲とエッセイは、80年代10代だった私の身体の一部だった。

つかこうへいと栗本慎一郎村上龍で、自分の身体と思想はできていた。何かといえばそう口走ってた。

自意識過剰でニューアカ、サブカル気取りの、田舎の嫌な文系高校生だ。

 

つかこうへいの戯曲を初めて読んだのがこの『郵便屋さんちょっと』が収録された『戦争に行けなかったお父さんのために』だ。

自意識と社会の中であるべき事への過剰な追求、ケレン味とそれをまとわざる得ない強烈な照れ、暴力性と愛情が表裏一体になり絡み合ったマイノリティの複雑な愛。革命を口にして生きたはずの周囲への絶望とすがる希望。自意識と共同幻想とギャップの間でもがく人のサガと業。

脳味噌と体中が痺れた。

馬鹿と文化がわからない田舎モンばっかりだと周囲に絶望していた自惚れたガキには、強烈なストレートパンチだった。

地方の一般家庭の高校生は、生のつかこうへいの舞台を観ることはなんてできるはずもなかったし、大学入学で上京してからもたった一度だけ、牧瀬里穂が観たいという理由で西洋劇場で『幕末純情伝』を観ただけだ。北区の舞台にもあえて行かなかった。

なぜなら最高の舞台は戯曲を読んで頭の中に構築されていたから。これ以上の傑作が本当に上演されるのか不安で舞台には行けなかった。

もちろん今は大後悔しているのは言うまでもない。

 

そんな戯曲がつかじゃない人の手で再演される。しかも一時代つかと共に歩んだ元編集者の出版社社長の熱い支援を受けてなんてことに、期待が高まると同時にまったく期待できないという両極端な気分を抱いてしまうのはしょうがないじゃないか。

 

オリジナルの戯曲はあくまでも原作で、演出の横内謙介が上演台本を書き、現代のエンターテイメント舞台として、頭から終わりまであっと言う間の小劇場でのエンタメ大舞台に生まれかわっていた。

人と人を結ぶ郵便屋だからこそ、運ぶ価値のない手紙を書くようなヌルい書き主を批判し、純粋に吉報を待つ阿呆に希望を与える配達を考える。例え手紙を盗み読んでも。という主人公達の行動と世界は同一だが、学生運動や政治の話しは後退し、愛の物語が大きく広がっていた。

 

現代につかが蘇ったのか?この脚色によってあの当時の小劇場の劇団の熱、観客の快楽は呼び戻せたのか?

 

つかこうへいが蘇ったかどうかはわからないし。正直どうでも良い。すでに死んだ作家だ。最高の舞台は記憶と共に自分の頭の中に、彼の言葉は本としてすぐそばにある。

 

演劇の熱や観客の快楽は間違いなく今日の劇場にあった。

テーマだとか心に響く何かとは関係ない。

喋って動いて泣いて笑って歌って踊って、身体を使って一枚の板の上を縦横無尽に使って観客を引っ掻き回す。上品だとか高尚な技術や手法や高い文化性や評価とは無縁に、ただ笑わせる泣かせる驚かせる喜ばせるためなら何だってやる、ベタだろうが浪花節だろうが舞台と身体の全てを使う。

楽しくなはずがない。

観客の反応に怯え、だからこそ徹底的に挑発し、あらゆる手法を使ってこれでもかと舞台を作っていったつかこうへいらしいと言えば、まさにつかこうへい的だ。終演後くじ引き大会やる劇団なんてあとにも先にも彼んとこだけだ。

その姿勢、その演技、その志の真摯さだけが、舞台の上で問われるのも同じだ。

 

今日は学生優待日だったらしく、周りは10代の学生だらけ、しかも10人を超える大集団で、正直なちゃんと感激できるか、その無駄口を上演中も続けるようなら叩き切るぐらいの心中でいたが、幕が開いた途端に彼ら彼女らも全員が、大きく笑い驚き拍手をしていた。

こんな体験したら後が大変だぞ。

なかなかこの熱を与えてくれる舞台はそうないから。

色々な意味で面白い舞台はたくさんあるが、この熱とサービス精神に溢れたエンターテイメントを別な場所で探すのは難しい。

それでも生の舞台にしかない観劇の喜びを一人でも多くの10代に知ってもらえるのは嬉しい。

彼らを喜ばせるため、彼らにまた別の形の舞台の快楽を経験させるため、そんな動機が一部になった新しい舞台の流れができてくれれば、今以上に舞台の世界が豊かになる。

少なくとも一部のタレント事務所の都合でやたらと増える、原作ありの舞台もどき、舞台らしきものが相対的に後退してくれるだけでも嬉しい。

 

上演期間も短いし、週末には東京では千秋楽だが、日曜の昼にはまだ空席があるらしい。

ぜひ体験してほしい。

『戦争で死ねなかったお父さんのために (1979年) (新潮文庫)』 つかこうへい 本 読書メーター

戦争で死ねなかったお父さんのために (1979年) (新潮文庫)

戦争で死ねなかったお父さんのために (1979年) (新潮文庫)

 
舞台『郵便屋さんちょっと2017』観劇に向けて再読。10代の頃、自分の体(頭・言葉)は、つかこうへいと栗本慎一郎村上龍でできているとイキっていた。それぐらいに大きな影響を受けた1人。今読んでもあまりにも真摯な姿勢と、時代に真っ当に向き合う人への偏愛が刺激的。学生運動、生まれつきの格差、人の性根の卑しさへの想いが、照れ隠しも兼ねたケレン味を帯びた舞台的な大仰さの後ろに伝わってきて心に響く。革命だ愛だと口にする事への真っ直ぐすぎる責任感、田舎モンがどん百姓がと叫ぶ暴力性、繊細な眼差しのギャップが刺激的だ。
 

『さくらの唄(上)』 安達 哲 本 読書メーター

さくらの唄  文庫版〈全2巻〉完結セット【コミックセット】

さくらの唄 文庫版〈全2巻〉完結セット【コミックセット】

 

基本的に漫画はレビューしない事にしているが、この本は読んだ事を記したい。下巻の展開の予兆はあるが、何者でもない内向的な少年の日常、オナニー三昧の年頃の日々の鬱屈としながらも朗らかでもある青春時代がよく描かれてある。『悪の華』への影響が大きいのはよく分かる。10代で読んでいたらトラウマになっただろう事は間違いない。