『髑髏城の七人 風』 舞台 橋本じゅん最高だぜ

 

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花、鳥と続いた髑髏城も3バージョン目の風。

主役の捨之介は、松山ケンイチ

無界屋蘭兵衛には向井理、天魔王は松ケンの一人二役、極楽太夫に田中麗奈がそれぞれキャスティングされている。

ついでに雁鉄斎には橋本じゅん

 

古田新太が過去に演じた一人二役バージョンをどう松ケンが演じきるか楽しみだったが、想像以上の良い演技だった。

もともも漫画的になりがちな声や演技が、外連味溢れる新感線の舞台にマッチしていた。以前の『蒼の乱』の役よりもずっと彼の資質にあっていると感じた。

なにせ織田信長の影武者で南蛮渡来の鎧と面で顔を隠した影武者っていう漫画設定だから、彼のような役者は自然に存在感を示せるんだと思う。

 

鳥と違って躍りや歌のような分かりやすい変更はなく、一人二役に合わせた細かな展開の違いがあるくらいだったが、今回の風は、花鳥に比べて、捨之介と欄兵衛との関係や、欄兵衛と極楽太夫の関係がすごく分かりやすく伝わる舞台だった。

細かな台詞や脇の絡みかただけの違いが主だが、回転舞台を使った新しい演出も貢献していたと思う。

森で欄兵衛に極楽太夫が抱きつき、抱擁し合う二人をセンターに残して舞台が回転していき無界屋のセットが登場してくる場面転換は、二人の関係を見せながら場面=状況が変わって行くことを、この舞台装置でしかできない手法で描き、とても美しい構成になっていた。

 

残念なのは欄兵衛の向井理だ。立ち姿は美しいし演技も役にあっていたが、殺陣がいただけない。

早乙女太一と比較するのはかわいそうだか、鳥のあの美しい欄兵衛の殺陣を観た後では、どうしても不満が残る。

いっそのこと鳥の阿部サダヲの二刀流の短刀や、や今回の松ケン登場時の瓢箪のように、向井理に合わせた形であの殺陣を変更すれば良かったなと思う。

 

小栗旬の花が王道、阿部サダヲの鳥が新しいエンタメ要素だとしたら、今回は原点回帰の上で分かりやすい入門編だ。

残るダブルキャストの月、その後の極とどう展開していくのか1年かかりの大舞台のこの先が楽しみだ。

『三惑星の探求』 コードウェイナー・スミス 本 読書メーター

初翻訳の「嵐の惑星」が素晴らしかった!突飛な設定、提示される謎の不可解さ、あまりにも魅力的な登場人物、それらを通して描かれる物語に溢れる感情の豊かなこと。こんなに美しく愛しく残酷で優しいSF中編は初めて読んだ。人類補完機構シリーズだとか違うとかは関係なく、コードウェイナースミスの最高傑作だと思う。幼い見かけと深い思考や感性を持っ女性ト・ルースの存在を感じ、憎み、愛し、信じる体験をするだけでも一読の価値はある。

『ダンケルク』 映画  戦争映画、いや戦争に物語を求める人はご遠慮ください

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フランス北部のダンケルクで実際に行われたダイナモ作戦、ドイツ軍に追い詰められた英軍、仏軍の兵士約35万人の撤退作戦を映像化したノーラン監督作品。

 

IMAXにて鑑賞。

重低音が椅子まで震わす圧倒的な音と、隅々まで空気が張り詰めている映像、安易なCGに頼らない圧倒的な絵の力が、約100分続く、大傑作。

 

派手な戦闘はない。

英雄はいない。

状況を説明する台詞はない。

プロパガンダに陥っていない。

悲劇も喜劇もない。

家族や地元への愛の物語もない。

人情やお涙頂戴の物語もない。

憎むべき敵役も悪徳ファシストもいない。

ドイツという言葉さえでてこない。

女性は隅の方に4、5人しか映らない。

既存の戦争映画なら映画を持たせるために必要な要素が一切ない。

 

それでいて、「戦争映画」としか言えない。

ぬるい涙や、くだらない愛なんてクソな余白や中だるみがない。

それでも人の生きる姿や誇り、同時に悲哀や絶望が伝わってくる。

まさに「戦争映画」として一瞬たりとも目が離せない、今後百年語りつがれる映画を一分の隙なもなく完成させたノーランは、間違いなく映画の申し子、天才監督だ。

 

プライベート・ライアン』が戦争映画の戦闘シーンを一新したように、『ダンケルク』以降の戦争映画は、これを超える力を持たない限り、新しい何かを見せることは難しいだろう。

 

海、陸、空それぞれの時間が異なる展開が、めまぐるしく入れ替わるが、最後に収束していく中で一本に繋がっていき、複雑さを感じることはない。

私たち観客は、戦場、飛行機の中、観覧船の中それぞれの人々と空気や音を共有しながら、作品の緊張を鑑賞中味わい続けることができる。

 

冒頭の銃弾から始まる映画は、最後の一瞬まで途切れることなく緊張感マックスで展開し、映画に浸る心地よさを与え続けてくれる。

映画に犯される快楽を、とことん楽しめる。

 

映画を観て語る「物語」や「正義」はここにはないが、映画を体験する事で語りたい事に溢れている。時計の音。鼓動の音。それらを延々と聴かせ続ける伴奏。実機を飛ばす空中戦。メッセーシュミットの姿。何度も沈没する船の様。光と暗闇の対比で見せるカットの数々。絵と音に関わる全ての事が語り尽くせない力に溢れている。

これぞ、映画だ。

 

展開の軸になる英軍の若者が、撤退作戦の最後列車の中で見せる表情が憎い。

軍人としての勝利ではなく、民間人の手助けがあってはじめて成立した撤退作戦の成功に対して、国民の歓迎を受け、チャーチルの勇ましいスピーチの原稿を読み、それでも浮かべる言葉にしない一瞬の表情と暗転。

ダークナイト』のラストカットのブチ切りにも痺れたが、この映画のラストも鳥肌ものだ。最後の最後まで安易な「正しい」戦争映画にしない。ノーランの「戦争映画」として終わらせる。

 

家庭のテレビでは味わえない。体に響く音と目に訴えかけてくる映像を大スクリーンで体験して欲しい。

 

納涼歌舞伎 『桜の森の満開の下』舞台 新しい古典の生まれる瞬間

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野田秀樹、夢の遊民社の代表的な舞台を、ほぼ戯曲をそのままに歌舞伎の舞台にした作品。

驚いた。本当にまんま遊民社の戯曲をそのままに通りなのに、所作や言葉遣い、動きや鳴り物が変わるだけで、こうも違ったものに見えるのか。

 

野田秀樹が演じた耳男を勘九郎が演じ、埜田とも父とも異なる飄々とした男を表現していた。

オオアマの市川染五郎、夜長姫の七之助、それぞれが、当て書きわされたかのように怪しく妖しい存在感を示していた。

いわゆる古典歌舞伎とは異なる、筋立ても人情も勧善懲悪もない、野田秀樹らしい言葉と幾重にも重なったイメージが意味を伝える舞台だが、板の上には歌舞伎、現代の歌舞伎が広がっていた。

勘三郎さんは、空の上で悔しがっていたことだろう。鼠小僧などの野田版歌舞伎は古典の世界の話しを今に演じていた舞台だったが、桜の森の満開の下は、現代の新しい歌舞伎そのものだったから。

 

年初に公演のあった『足跡姫』は、野田秀樹から盟友勘三郎への想いだったが、そこに溢れていたイメージは、そのままこの桜の森の歌舞伎の板に繋がっていた。舞台をところ狭しと散る薄桃色の桜の花弁は、友を送ると同時に未来を迎え入れる花道だった。

 

とても良い舞台体験をする事ができた。

 

野田秀樹が、安吾の物語をどう継承して広げ踏みつけ時分のものとしたかの話しはまた別の機会に。

坂口安吾 2編 『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』 本 読書メーター / 『贋作・桜の森の満開の下』 野田秀樹・舞台DVD 納涼歌舞伎「桜の森の満開の下」への予習

桜の森の満開の下

桜の森の満開の下

 

桜の森の満開の下

妖しく咲き誇る満開の桜。本来の桜は狂おしく嫌悪に近い悪魔的な魅力を持つものだ。薄桃色の美しい花弁が幾重にも重なる姿に身を晒せば、そこで感じるのは悦びではなく恐怖だ。女性の美しさの本質も同じものだと見抜き、その恐ろしさとだからこその愛しさ、愛の狂気を描く坂口安吾の筆に痺れた。明るさや癒しが美しさの源でない。呑気に日々を過ごして当たり障りなく生きていれば、全くもって非常識な、しかし真実を見極めるような真摯て修羅の生き方と愛を求めて生きていきたい。

 

 

夜長姫と耳男

夜長姫と耳男

 

 『夜長姫と耳男』

坂口安吾の描く人のあり方は、モラルや常識やコードに縛られず純粋で真摯なだけに残酷で醜悪だ。夜長姫があどけなくピュアに求める事柄はまっとうな日常から見れば、倫理に外れた酷い物事だが、人の根源のあり方から見ればしごくまっとうな欲求だ。耳男が両方の耳を失って初めて夜長姫の真の美しさを自分の眼を通して知る事ができ、姫を自分だけのものとした事も納得できる。「好きなものは~」と姫に美しく残酷で永遠の真実を語らせる安吾の壮絶な真摯な姿に改めて心が震える。そうだ、世界はなんて残酷で醜悪で、だからこそ愛しいんだ。

 

 

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『贋作・桜の森の満開の下』 夢の遊民社

90年代に日本青年館で収録された舞台をDVDで。

圧倒的な言葉と体の力。遊民社の代表作の一つとしてあげられる事の多い作品だ。

安吾の原作のうち『夜長姫〜』の印象が強い話だが、野田秀樹らしい世界への翻訳が美しかった。

安吾が見切った、残酷で悪女だからこその本質としての女性の美を、舞台の上で描きながら国造りの残酷な側面に絡めてみせる。

鬼、国が同義で異議で、耳が象徴するモノと桜が見せる幻想と現実の世界が美しかった。

年初の『足跡姫』にも繋がる桜の樹の満開の下のセットが、舞台だからこその儚さで登場人物たちの言葉を包みこんでいた。

 

贋作・桜の森の満開の下

贋作・桜の森の満開の下

 

『打ち上げ花火、下から見るか?上から見るか?』 映画 シャフトの無駄使い

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普段はどんな映画でも良いところを見つけて、褒めるようにしている。

この映画も製作したシャフトの作画や演出は、映画として素晴らしいと思う。

オープニングからのタイトルバックの花火なんて、実写では表現不可能な美しさだ。

この映画はこの辺りしか褒める部分がない。私には合わなかった。

 

オリジナルのテレビドラマは、リアルタイムで観た。「世にも奇妙な物語」がヒットして二番煎じで企画された「Ifもしも」の中でこのドラマが放送された時の衝撃ったらなかった。

奥菜恵の少女でも大人でもない特別な一瞬の存在を切り取った映像は、10代だった男子には幻のようだった。恋に落ちない男子なんて想像できなかった。

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声変わり前の小学6年生の男子の夏休みの1日を、ノスタルジックにリリカルに、ありそうでないファンタジーとして描いた岩井俊二は天才映像作家だと思った。

 

あのドラマをリメイクする、しかもアニメで、となるのであれば、何をテーマに据えるか、それが問題だ。

少年の憧れと恋心の対象となる少しだけ先に大人になった美少女。

子供時代最後の夏休みの1日、それは恋心を知ると同時に、自分ではどうにもできない学校外の大人の世界を垣間見る瞬間。

くだらない事にムキになる楽しさと自分の気持ちを正直に語れない虚勢を感じる友情。

夏休みの夜忍び込むプール。

 

あげていけばきりがないが、こうした空気の組み合わせが、このドラマを記憶に強く残る作品にしている。

がこの映画は、中途半端にオリジナルを継承しつつ、オリジナルを改変した部分と水増した映画独自の部分が。ことごとくこの作品の根本と微妙にずれていた。

中学生ではなく高校生にしか見えないキャラ。

本当に夏休みなのか、暑い夏なのか伝わってこない空気。蝉がないてない夏休みはないよ。

現実から遠く離れていくファンタジー。

後付けされたタイムリープの方法。しかも物語都合で整合のとれていない設定。

肌を這う蟻ではなく、近づけば逃げるはずの赤とんぼ。

ジブリの二番煎じの海を走る電車。

声変わりした俳優と声優。などなど。

 

繊細な気持ちと空気を、繊細に描く事で奇跡のように成立していた世界が、まったくの不発になっている。

作画や背景、特殊効果が独自の美しさを持っているだけに、この繊細さが表現できなかった事は、あらためて残念だ。

タイムリープが『君の名は。』の二番煎じだとかの問題じゃない。繊細な男子の気持ちをそっと形にすべきところを、完全なパッッケージにしてしまったことが根本の問題だ。

脚本の大根仁は、ドラマが好きすぎたのだろう。『モテキ』の二話の聖地巡礼の回は抜群に面白かったのに、好きがまさって大きく裏切って自分のものにする事ができなかった。

なんでキスなんてさせるんだ??それは『打ち上げ花火〜』の世界じゃないだろ。

キスどころか、淡すぎて気づかないけど、でも間違いなく心に残る初恋こそが、夏の花火の夜の記憶じゃないか。

 

最後に映画オリジナルで気に入った事を話て終わろう。

不思議の玉が砕け散った瞬間、たくさんの時間線に存在した、またこれから存在するだろう様々なもしもがなずなと典道に降り注ぐシーンは、実写では表現できず、またシャフトのクオリティだからこそできた素敵なシーンだと思う。

この欠片の中でキスしてしまうのも、どうにもうなづけないが。

 

オリジナルドラマを知らず、初めてこの映画に触れた少年の感想を聞いてみたい。

あの夏休みの1日、奥菜恵に恋してしまったように、この作品のなずな永遠の美少女に恋を感じただろうか?

もと少年だった大人は、あの頃の気持ちを思い出す事ができただろうか?

 

追記:

観賞後ずっとわからないシーンがあった。

なずなが「いなくなった」と説明する父親の事だ。

子供を肩車しているカットと海に溺死体として浮かぶカット、その手元に不思議の玉が浮いているカットが続く。

なぜ父親がなくなったのかの説明がまったくされない。

唐突な想像だけ書くが、なずなの父も典道となずなのようにもしもを繰り返し駆け落ちを成功させたのではないか。

その結果なずなを子供として授かることができたが、もしもの繰り返しの中で海を命を落としてしまったのどはないか。

となると典道が、なずなと海で沢山のもしもに囲まれた先には死が待っていることになり、エンディングの不在は、典道がいなくなってしまった事に繋がって行く。

まああくまでも個人的な妄想だ。仮にそうだとしても、それならば描写が少なすぎるし、抱いた感想が覆るわけでもないけど。

私の頭の上を通りすぎて行った男たち 人格を形成してきた読書遍歴

※この記事は、自分語りです。しかも長い。

 

夏休みに、10代の頃を思い出し、私の人となりに影響を与えた作家たちについてつらつらと考えてみた。

10代の頃の読書は、もろに人格に影響を与えてるなあと、改めて思った八月の暑い朝。

 

小学校低学年の時、図書館においてあるジュブナイルシャーロック・ホームズ全集にはまり、イギリスのスノッブと探偵に憧れる。

大学入学後探偵サークルへ入部。

 

その後図書館の小学生向けSF全集から、本格のSF全集まで触手を広げ、筒井康隆の狂気と光瀬龍の浪漫に痺れる。

 不信な癖にメディアに近いところどで働いているのは『東海道戦争』のせいさ。

またこの頃、古本屋という存在を知り、大人コーナーでSMスナイパーと衝撃的な邂逅。淫靡でアンダーグラウンドな緊縛の虜に。

「SMスナイパー」の画像検索結果

このあたりの影響と趣味の世界は、このブログではなくU-18の別ブログで。

 

本ではないが、テレビで『宇宙戦艦ヤマト』『ガンダム』と二つの巨大な彗星が人生に飛来。オタク第一世代として順当な道を歩みはじめる。

ヤマトのファンジンを、当時大好きだった女子と作っていたのは、甘酸っぱい思い出。

そしてマチルダに恋し、スレッガーの無頼さに憧れ今のフェミニンなナンパ野郎の道へ。

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中学三年。受験は県内有数市内一の進学校に合格するのはなんとなくわかったいたため適当にやりすごしているその時、ついに栗本慎一郎『幻想としての経済』に出会ってしまう。

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過剰と蕩尽。蕩尽のための日常。パンツを脱ぐために履いた猿。今までの稚拙な人生観はことこどく崩壊し、偏った人生観の基礎が出来上がってしまう。

そして坂口安吾堕落論』で、堕ちた先にしかない真実を語る無頼に触れ、周囲の全ての大人と学友が馬鹿にしか見えなくなる。

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だめ押しでつかこうへい『熱海殺人事件』小説版と戯曲版が百姓、ド田舎者への憎悪を肯定し、かなりのジャックナイフ感を醸し出していた。と自分では思っていたが、ただのネクラな自意識過剰な嫌な野郎でした。

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高校時代は本ばかり読んでいる偏屈なガキで、孤独と孤立は俺の友と嘯きながらも、小学4年から続く学級委員連続登板を更新し9期完投するという、なんだかよくわからない青春を送る。

余談だが、中学三年で転校した超絶な美女同級生に高校で再開し、村下孝蔵「初恋」のまんま校庭を走る君を僕は遠くで見つめていたが、大失恋を二度経験する。

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栗本を追いかけ明治大学に入学したは良いが、リサーチ不足で法学部ではなく文学部に入ってしまい、講義やゼミに正式には参加できず、仮面法学部生として授業を受けるも本来の学部では赤点ばかりで最低限の成績、あやうく留年しそうだった。

 

当時住んでいた杉並の駅そばにあった貸本屋(!!)で村上龍『愛と幻想のファシズム』を借りて読んだことが、私の人格形成の最後の一打となる。『コインロッカー・ベイビーズ』『テニスボーイの憂鬱』各種エッセイを貪るように読み漁り、俺はなんで村上龍ではないんだろう、この蕩尽スタイルこそが俺の人生だと完全に刷り込まれ、今の私が完成した。

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こうやって振り返ると、うん十年たった今も基本はあの頃と何も変わってないな。

良し悪しや、行動の基準になる価値観はこの時形成されたもののまんまだ。

もちろん社会人としての経験を経て、表へ出す方法や人との距離の作り方はかなりマイルドになったけれど、大元のコアは変わってない。

 

というのが、私の読書遍歴10代編です。

このあとは雑食と化し、活字中毒へのまっとうな道を歩んで参りましたとさ。

おしまい。

 

 

堕落論 (角川文庫)

堕落論 (角川文庫)

 
小説熱海殺人事件 (角川文庫)

小説熱海殺人事件 (角川文庫)

 
愛と幻想のファシズム(上)

愛と幻想のファシズム(上)