『ユリゴコロ』 沼田 まほかる 本 読書メーター
恨みで人を殺したいと思った事はない。殺したくなるほど人を愛した事もない。人を殺す事を目的として殺人の妄想をした事は、正直ある。手記の書き手のような自然な欲求ではないが、妄想は自由だ。もちろん一線を越える事はこの先もない。人の心の深淵を覗いた時、底に見えるのは自分の顔だと言う。主人公が囚われていく気分はきっと深淵の顔と血の繋がりを信じたいと言う愛情への希求なのだろう。拠り所を脱した彼女が、その切っ掛けとなった存在のすぐ傍らにい続けた事、そんな彼女を受け入れ愛し続けた男の二つの想いがこの作品の屈折した希望だ
『神様の裏の顔』 藤崎 翔 本 読書メーター
対する相手の数だけ、人は様々な顔を持つ。全てが本物で、すべてが偽物だ。そう考える本人の意識に対してさえも、本物であり偽物でもある。意識って面倒臭い。ましてや他人の中にある「私」の印象なんて面倒臭いの極致だろう。勝手な思い込みと、都合の良いストーリーの中で存在する「私」が、どんなものかを想像するだけでゾッとする。死んでしまった聖人君子のような元教師のイメージが彼の葬式の場で崩れていく物語は、虚構を信じていた人たちの態度の変化が滑稽で面白い。その上、人は幾つの顔を持つのかを最後まで貫く展開は、純粋に楽しい。
『宿命 (上・下) ワンス・アポン・ア・タイム・イン・東京 』 楡 周平 本 読書メーター
学生運動に遅れて産まれた。しらけ世代の次のバブル世代にあたる。高校の頃には、学生運動に対して憧憬と軽蔑と少しの恐怖を抱いていた。教育実習生の日報に「革命を忘れるな!」などと書いたりもするおかしな餓鬼だった。マスコミの端くれに就職すると学生運動の残党が多くいる事に驚くと同時に、のほほんと普通に企業で働く様に怒りを感じたりもした。主人公の女性が革命の火を胸に抱き続け、人の人生を狂わしてでも実現しようとする姿に、かくも革命のロマンは根強く滑稽なのかと改めて感心した。革命の先には何があるのか?永遠に解けない謎だ。
宿命(上) ワンス・アポン・ア・タイム・イン・東京 (講談社文庫)
- 作者: 楡周平
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/08/12
- メディア: 文庫
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『ブレードランナー2049』 映画 アンドロイドは、電脳女の夢を見て夢精するか?
IMAX3Dにて鑑賞。
丸の内爆音映画祭でチケット購入していたが、諸般の事情で観られず、やっと鑑賞できた。
観客が数人しかいなかった地方の映画館で、身体と脳味噌が震える興奮をしながらも、誰にも語れない/語る相手がいない体験をしてから、35年。
まさか、正当な続編、あの時と同じかそれ以上の興奮をスクリーンで味わえる事か出来るとは思っていなかった。
オープニングの瞳と風景から始まるファーストシーンん観ただけで、興奮に震えた。
P.K.ディックの原作は、前作のオリジナル版を観る前から何度も繰り返し読んでいた。
マーサー教、感情オルガン、機械仕掛けの羊、レプリのLAPDなど、原作の魅力ある設定が大幅に切り捨てられていながらも、人と人でない者の違いは何なのかと問うディックの根元的なテーマは、しっかりと掘り下げられていて、それらをかって一度も観たことのないリアルな未来のヴィジュアルの洪水で形にした映画に、ノックアウトされたのが今でも思い出せる。
新作『2049』の衝撃はいくつもあるが、何よりも響いたのは主人公KとAIジョイとの恋だ。
デッカードとレイチェルの恋の先にある話がストーリーの根幹に流れながら、それに上乗せる形で現代に繋がる情動を投げ掛けてきた。
この点から観ればこの映画は、切実で、ピュアで、残酷な恋愛映画だ。
×ここから先は、ネタバレ気にしてません。
前作で一番痺れたのは、非人間的な行動をする生物としての人と、人間的な行動をする人工物のアンドロイドは、どちらが本質的な意味で「人」であるのかと言うディックの身を削る問いを、人であるデッカードが冷酷にレプリカントを殺害し、レプリカントのロイが最後に人を救うというストーリーで、映画的な興奮と共にスクリーンから投げ掛けてきた点だ。
動物のように雄叫びをあげるロイが、震えるデッカードを救い命を全うする。あの瞬間より人間的だったのはどちらなのか。
その経験を経たから、デッカードはレイチェルを恋する相手として逃げる。そしてレイチェルは普通の人のように生き続けたとナレーションで語られる。
死を恐れ、生きることを望み、対する相手に共感を抱き接する事ができる存在は、物質的に何からできていようが「人」である。
だから私にとってデッカードは、人間としか考えられない。レプリカントではないかと言う話題や監督の発言があっても、いやそう言わせるような存在だったからこそ最終的に「人」なんだと強く思う。
この二人の逃避行から続く『2049』の中で、レプリカントであるはずのレイチェルが出産をしていたことは、「人」として逃げた二人結果としては、当然の帰結だ。
どんなにテクノロジーが進化しても人工物の中で細胞分裂をおこし胎児が育ち、出産された子供が成長して行く構造なんてありえない。それを可能にする存在はすでに生物としての人だ。天才タイレルが創造したネクサス7は、人と寸分違わぬ存在だ。いや人そのものだ。
ウォレスの造ったネクサス9は、そこに及ばない人工物としての存在ながら、感情という部分では、人と変わらない。
その新たに加わった存在を主人公とすることで『2049』は、ディックのもう一つの、自意識を感じているこの私以外の回りにいる全ての存在が本当に私と同じようなリアルな存在なのか、そもそもそう考えている私自身のこの感覚がリアルなものなのか、という問いを突きつけてくる。
自らの存在を裏付ける記憶や感情が後天的に植え付けられたものなのか経験として手に入れたものなのか、今生きているこの瞬間に絶対的な答えを出すことは出来ない。完全に記憶を植え付ける技術があればいくらでも捏造が可能だから。かなり中二病的な問いだが哲学的な問いなんてそんなもんだ。
明確な答えが出せないこの問いも、人とは何かの問いと同じく、最終的にはそこにある瞬間の行動と思いでしか人か否か、リアルなのかフェイクなのかは決められないという答えが、人にとって絶望であると同時に希望なのだ。
『2049』でKは、自分の記憶を巡り奔走し、状況に弄ばれ、やがて絶望を感じる。
しかし最終的に、デッカードの命を救い、娘との邂逅を実現させる。
この行いから判断すればKはリアルな人以外の何者でもない。ネクサス8を冷徹に処分する人でないブレードランナーが、最後には雪に包まれ人として死んでいく。
美しく切なく、そして希望と安らぎを感じる素晴らしいラストシーンだ。
他にも映画に溢れる水の様々なイメージ、光、ペットとしての動物、ヴァンゲルスをリスペクトしたテーマ曲、進化した屋台などの街の有り様、前作では直接的に表現されていなかったセックスの扱いなど、書きたい事語りたい事は山盛りにある。
またこの先長い期間何度もなんども鑑賞し興奮し続ける事のできる映画、少なくとも私には、がこの『ブレードランナー2049』だ。
爆音映画祭 『ブレードランナー ファイナルカット』 雨音はヴァンゲルスの調べ
『ブレードランナー2049』の予習も兼ねてファイナルカットを選択。
映画の感想は以前書いた下の記事にて。
爆音の「爆」に騙されてた。爆発するような音だと勝手に勘違いしてた。
超とか拡とか、もとから映画が持っている、音楽や環境音やSEを最大限まで活かした上映ってことだった。
新体験で、映画の印象がかなり変わる。
この映画ではこんな場所にまでBGMがあったのか、とか雨音の存在感の強さや、バックで交わされる日本語を含めた雑音が背景の街の様子を深めていた。
吐息まで聞こえるような音響で、例えばレーチャルの戸惑いの息遣い、ロイの雄叫びの変化など、音による表情の深まりが映画をされに魅力的なものにしていた。
できるなら他のすべての作品を観たい。が、仕事が・・・。
持っているチケットは、あと2枚。『ブレードランナー2049』『キングスマン』
どちらもどんな映画になるのか。すげー楽しみだ。
PAは意外と小規模だけど、映画館でこんな状態見るだけでワクワクする。
爆音映画祭について、こちら。
ラインナップがすごい。できるなら全作品鑑賞したい。
『関数ドミノ』 舞台 繋がってんだよ、好きでも嫌いでも
劇団イキウメの代表作の一つを、外部演出家と役者によって再演。本多劇場。
過去に2つバージョンのあるうち初版オリジナルの戯曲をもとに作者前川知大が改稿している。
そこにある空気と役者の存在感が妙に生々しい舞台だった。本多劇場という箱のサイズもあるが、すぐそこにいる誰かの話を横から覗いているような感触だった。
主演の真壁薫を演じる瀬戸康史の演技がそう感じさせたのだと思う。ごく自然に今時の若者から、狂気の顔、冷静な観察者、熱狂的な思索者、精神の貧弱へと次々と表情を変えていく様子は、舞台から観客を知らないうちに支配していた。彼の声が多数のシチュエーションを通して一貫したものでありながらトーンで観る側の心情をコントロールしていた。
真鍋のある発想から登場人物たちが不可思議な状況、犯罪的な行為にまで巻き込まれていくのだが、観客も同時に瀬戸の演技で不定な状況に巻き込まれていく。
クローズアップもカットの切り替えもないなかで、最後まで引き込んでいく演技は素晴らしかった。
前川知大らしいSF的な設定ドミノが、果たして本物なのか、狂った弱者の屁理屈な言い訳なのか、最後まで余談や安易な安心感を与えない物語に説得力を持たせ、最後のシーンに微かな不安な希望を残すのも、瀬戸の演技と、周囲の役者の巻き込まれる受けの演技とが良いバランスで成立しているからだ。
ストーリーが投げ掛ける、人の幸福や不幸はドミノのせいなのか、人の心の持ちようや見方によるだけの物なのかの問いかけは、永遠に答えの出ないものだ。
幸せや不幸の因果を物理的に説明できる理由かあれば、それは楽だろう。自分の行いの責任や努力を放棄し、全て外部に託す事ができる。同時に努力や行動では解決できないあまりにも理不尽な状態は本当は誰かの作為や超自然的な何かのせいではないかという疑いを抱いてしまうことを否定もできない。
人は誰しもそれほど強くない。それこそ小さな神様を信じる事は、誰にでもある。
外部に理由を見つける姿が狂人のように見える瞬間と、それが一転し超自然を周囲が受け入れ本人が懐疑的になった姿もまた狂人のよう映る瞬間を、強烈に印象付ける構成は見応えがあった。
結論なんて出せない事柄を、同情を安易にさせない構成で観客に投げ掛ける寓話は、前川知大らしい骨太なものだ。
前川知大が演出したオリジナルはどんな舞台になっていたのだろうか?
真壁たちが別の登場人物の部屋を監視するシーンでは、今回のように左右に完全に別れるのではなく、多重的に重なり狭い舞台の上に2つの空間を交わらせるようなものだったのだろうかなどと、想像するだけでも興味が尽きない。
余談たが、ラストシーンの街灯のアレは、AKIRAか童夢のアレだ。大友漫画っぽい設定も含め、ちょっとした遊びが楽しい。まあ勝手な思い込みだけれど。
レキシ コンサート「不思議の国の武道館と大きな稲穂の妖精たち~稲穂の日~」@武道館
話題のレキシのコンサート。
普段お世話になっている美人MCからお誘いを受けて初参戦。
あらかじめ予習を徹底したのもあるが、かなり楽しい体験だった。
「最後の将軍」や「KATOKU」みたいなメジャーな曲はもちろん、昔の名曲までPV見ているだけで、キャッチーで時にメロー、時にファンクと様々に姿を変えるメロディに、あっと言う間に引き込まれる。
さらに、日本の歴史に関するテーマを扱いながら、恋や日常の感情を響かせる歌詞をメロディに合わせるという、他にないアクロバティックな楽曲を、高いレベルで楽しく仕上げている。
音楽技法には詳しくないが、ファンクなリズムやロックなビートが背景にありながら、ファーストタッチのメロディがかなり分かりやすい。
初めて聞いても、どこか身体が反応してしまう普遍性がありながらも、聞いたことのない世界の融合が、かなり楽しい。
言い訳はさておき、ライブはフィジカルにもノリが良いのはもちろん、レキシ独自の世界観が頭脳も刺激する。
アラフォー、アラフィフも多いライブなので縦ノリもあまり過激ではなく、ちょうど良い疲労感と肉体の心地よさと頭のシェイク感が癖になる。
アラフィフのおじさんがQ,Q,Qとからだ全体で文字作りながらのっていてもどこも不自然のない、暖かい会場ですよ。
「最後の将軍」で"森の石松"として参加した松たか子が、レキシのライブを鑑賞した時に、曲にノリながらも、ふと冷静に考えれば、♪大奥~、大奥~♪と普通のライブではありえない訳のわかんない言葉を楽しく口ずさんでいる大人の集団の不思議さをインタビューで応えていたが、まさにこの感じ。
あとライブでお約束の稲穂のウェイブに、キャッツね。どこのライブにもあるお約束のファン行動だが、稲穂が一面に揺れる武道館のアリーナは、見ごたえあるよ。バカバカしい楽しさだ。
イルカは飛び回り、稲穂は会場全体で揺れ、俵が会場をめぐる。おちゃらけてるくせに、突然のソロバラードで泣かせる、緩急ついたエンタメ度数の高い舞台だ。
セットリストはともかく、ゲストがニセレキシという一見地味ながらもおかげで「武田」がライブで聴けると言う豪華っぷり。良いんだか、悪いんだかよくわからないお得感。
ライブ中は、レキシの曲から急に関係のない歌謡曲に変化したり、躍りが入ったり、ちょっと危険なギャグが満載のため、映像化も放映もできないと言う、適当ぶり。
PVや楽曲で聞くのももちろん楽しいが、ライブにしかないレキシらしさは、多分味わっておいて損のないものだから、興味があればぜひ参戦を。
ちなみに普段はライブよりも作り込まれたディスクの楽曲で音楽を聞く方が好きな私がはまるのだから、この歌詞を許容できる人は騙されてみてください。
あー楽しかった。