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「イノセンス」

毎度の事ながら、公開すぐにはいかず、ギリギリで映画館に駆け込む事になった。押井の映画を映画館で観るのは「ビューティフルドリーマー」以来だ。作品はほとんど観ているし、アニメ作家としては高く評価しているが、実際には二作品しかスクリーンで観た事がない。うる星やつらは、最初に観た時に傑作だと思ったが、監督に興味が湧いたのは、観賞した数年後だった。
ブレードランナーへのオマージュにあたるオープニングから一気に映画の中に引き込まれる。圧倒的な画の力だ。今の日本では一級のクオリティだ。択捉の祭りのシーンのなんと圧倒的な事。このイマジネーションと画のクオリティの高さは、世界にも比較できるものはないし、他のアニメとの差は限りなく広い。
ブリスの哀しさをさらに一歩踏み込んで思考するテーマは、俺にとって馴染み深いものだ。人、疑似人、意識、愛、同情、動物への愛、人形への愛。人とアンドロイドとの境目はどこにあるのか。バウンティハンターにあたるバトーは、デッカードよりもさらに進んで、脳の一部以外は全て人工物だ。人が人形を作り上げる心理、その人形を愛玩し、セックスまでする。無機物を相手にしたセックスは、生身の女性に幻想を投影したセックスと何が違うのか。人形を愛玩する事と、犬を可愛がる事の違いは何なのか?最後の一部だけを残した擬体と、子供のゴーストをコピーされたアンドロイドとの違いはいったい何なのか。浅く、深く感じさせる。その上で背景にある小道具の全てが、メインテーマに関連している。クラッシックなスタイルの車、あの時代の車は女性の体を造型のモチーフにしていた。動物の形態に似た飛行機や潜水艦。人は何を造形物に求めるのか。
最後の一線を越えず人であるバトーは、血の通うクローン犬を世話し、愛しているのはネットに意識を拡散してしまったゴーストである少佐だ。
リアルな人を愛するのではない。愛情という幻想を投影できる対象であれば、人は愛する事が、愛すると思う事ができるのだ。家庭で待つ子供に抱く愛情と、体を持たない少佐への愛情は等価なのだ。主人公のバトーは悲しい。肉体の接触を伴わない愛情はそれだけで成立するが、ぬくもりの代償を求めてしまうのだから。ラストカット、犬を抱くバトーの哀しみは、人形を抱く子供と同じものだからこそ浮かび上がるものだ。
バトーのような想いを抱いて生きるのは、辛い。それでもその道を選択する彼に憧れる。
良い映画だ。オタクへの媚びが一切無いのも心地良い。
CGの違和感は気持ち悪い。背景はできればもっとCG臭い作りから遠くのものにするべきだと俺は感じた。
ブリスとレイチェルとデッカードの関係は、この映画の中で新たな物として昇華されている。できるのならばバティとデッカードとの関係にも踏み込んで欲しかった。すぐに擬躰やメカニックを晒すアンドロイドではなく、人間と一切変わらぬ姿の、破壊と暴力への志向を持った存在として擬人との葛藤が欲しかった。愛する事と常にセットである破壊・暴力・殺人と、人の相関への視線があれば、この作品は今年のベストだ。
ディックの小説には、あの時代とのリンクがあった。ベトナム戦争ニクソンと言う大きな存在を意識して書かれたのが「アンドロイドは、電気羊の夢を見るか」なのだ。この作品にも今に繋がるものが残念ながら無い。そうした視点が欲しかった。これはさらなる欲目だ。無い物ねだりと言って良い。押井監督には興味の無い事だろう。ただ「イノセンス それは、愛」ってのは無いだろう、糸井ちゃん。ジブリのコピーは良いけど、こういう作品に糸井はないよ。マーケティングの匂いが強すぎる。この作品にある愛情は、愛って言葉では表現できないものだ。
ジャパニメーションとしてこの作品を海外に出しても、歓迎されるのはその造形や画作りの凄さだけだろう。本当のテーマに共感できる人間はアメリカにはほとんどいまい。欧州ならまだ可能性はあるが。このテーマの深さと同時にある、バディムービーとしての分かり易さやストリーラインのシンプルな力強さは、映画としてかなりレベルの高い融合だ。奇跡と言って良い。でもその深さが伝わらなくても、アニメ映画と言うアートとして、がんがん世界に届いて欲しい。ディズニーなんてクソで、ピクサーなんて子供だましのCGでしか無い事が世界に共有されると良い。
「攻殼機動隊2」としてはあまり前作と繋がっていないとの話もあって興味は津々だったが、立派に2になってるじゃないか、少佐もバトーも公安9課の連中も皆働いている。タイトルカットの人形が出来上がっていく様子は、そのまま1へのオマージュだ。まったく同じタイトルバックをあえて作った押井の狙いは、心地良い。
少佐がバトーに語る「あなたがネットに繋がっている時、私はいつでも傍にいるわ」と言う台詞に涙した。字面通りの言葉じゃない。いつでも偏在していると言う事は、特別な存在として彼の傍にはいないと言う事だ。こうして事件があった時に姿を現すかもしれないが、それは正義の味方と同じだ。愛する人が傍にいるわけでも、その存在を感じる事ができる訳でもない。そこに「いる」と感じていると信じる事しかできないなんて、悲しすぎる。それでもバトーはそんな少佐を受け入れるのだ。
彼のようにありたい。でもきっと彼は、今以上に面倒くさがりながらあの犬の世話をする事になるのだろう。