マスコミを信じるな、なんて腐る程言われ続けてきてる。
俺達が学生だった頃ですらそうだったのだけど、テレビ局や新聞社を目指して就職活動するような奴に志の高い奴なんて一人もいなかった。もてる、やれる、高給で、人に自慢が出来て、はなやかで、ミーハー心を満たしてくれる仕事。動機なんてそんなものだ。崇高にジャーナリズムを語り報道を目指しているような連中も、おつむの中はお寒いものだった。俺の回りだけだったのかもしれないが、マスコミ志望って段階で、勉強はできるかもしれないけれどダメダメな奴らばかりだったのは間違いない。
そういう俺だってマスコミ志望だった。しかも自分で駄目だと言う報道を目指していた。バブルの最後っ屁の90年は最後の売り手市場で、競争率の高いマスコミに無理してもぐり込むよりも、もうひとつのミーハーな広告業界に就職活動をほとんどする事無くするりと入った事で、すっかり熱も冷めてしまい苦しい闘いをする事はなかったけれど。
東シナ海の中国の天然ガス田開発や、密入国韓国人逹の強奪・略奪事件の報道の姿勢や、韓国、中国への多大なる配慮に溢れた報道や、愚かとしか言いようのないワイドショー的ニュース、地味だけど大切なはずな報道されるべき事柄の無視などマスコミの取り上げる、もしくは取り上げない諸々の物に触れる度に、あんな連中があつまって作る物を信じられるはずがないじゃないかと、心の底から思う。
熱く語る事が恥ずかしく、生真面目に硬く生きる事が馬鹿だと言われるような国で、この国やこの国に生きる人達のために、社会のために、何かを伝えようなんて思うジャーナリストがマスコミの中で育つ訳がない。周辺の過酷な環境の中で、フリーのジャーナリスト、ライターとして暮らす人達はいるだろう。それでも大きな存在としてある大手マスコミに何を期待できると言うのか?
そうした事がわかっていながらも、日々接するテレビなり新聞なり雑誌なりで伝えられる情報に対して、気が付くと無防備な状態で受け入れている瞬間がある。全てを疑ってかかるべき情報を、
マスコミなんて、すくなくても日本のマスコミなんてしょせんは中途半端な第四の権力でしかない。他の権力を牽制し、批判し、正しい道を示す権力ではなく。他の三つの権力と共謀し、互いの存在を少しでも長く長引かせるための装置だ。そして無知な、自分は特別だと思っているもっと罪深い無知な連中を静かに洗脳していっそう影響力を高めていく。
視聴率至上主義を批判した所で、結局はそうした番組を見続ける連中がいる限り、クオリティなど高まるはずがない。
しょせんは大衆の意識や知性の鏡なんだから。
ネットがその虚像を覆し、第四の権力から力を奪う事ができるなんて信じる事もできない。無いよりあった方がマシだ程度のものでしかない。大きな力を持つ事なんてできない。一部の人達には真実を伝える事はできるだろう。でも普通の人々に知性や自分で考える可能性を与える事はできない。そんな力があれば、とっくの昔に日本や世界は良い方向に向かっているだろう。
この良い方向って言葉だって、怪しくて危険なものだ。相対主義に陥らず、それでも最大公約数としての良い方向を誰が示す事ができるだろう。戦後の腐った教師たちの普段の努力による優しい教育の影響で、クソのような左翼風のやわで優しい思考がうっすらと広く浸透しているこの社会で、力と方法を示す事ができるとも思えない。力を持ったカリスマが率いるファシズムに憧れるのは、そのせいだ。ナチズムとファシズムは決して同じ物ではない。有能なカリスマに率いられた社会はけっして酷いものではないだろう。
この文章に結論なんて無いし、結論めいたものもない。ただどうしようもない連中しか産まれていないこの日本で、何に期待する事ができるのか、と言う問いに、何に対しても期待する事はできないな、と言う悲しい当たり前を確認するだけだ。金の事を語る事、自分の趣味や思考や嗜好を語る事、自分について語る事、自分の欲望を肯定する事などを、恥ずかしいと感じる事ができなくなった人間逹に、志やプライドなど期待できるわけがないじゃないか。
恥ずかしいと言う言葉はもう存在しない。
そうした当たり前の事が分かっていて、救いがないと感じていても、明日はまたやってきて、否が応でも生きていかなきゃいけないんだよな。諦めて安易に死を選ぶ事も愚かな事だって知っているから。逃げる事は間違っていないが、恥ずかしい事だと理解できるくらいの品性を持って逃げるて欲しい。
さて、俺はどうだろうか?俺に何ができるだろう。俺はどうやって生きていけるだろう。