劇団印象『嘘月』

横浜STホールで観劇。
演劇を生で観るのは数年ぶりで、開演前はワクワクした。
日曜の午後、とても小さな劇場は満席で観客が開演を静かに待つ様子は、演劇独特のもの。共有できている空気を含めて観劇は始まっているわけだ。

演劇のストーリを取り上げて、詳細を穿りつらつらと感想を述べるのは、意味の無い事だと俺は思う。演劇のレビューなんて書いた事がないから、簡単な感想。
客の目の前で役者が演じる劇で一番大切なものは、肉体と言葉だ。そしてそれを通して観客と演者との間でやりとりされる空気だ。
舞台の上の役者達は、彼等の体を使って精一杯の演技をしている。それは伝わってくる。眼差しも指先も緊張し、真剣に役になり物語を紡いでいる。
それでも残念な事に、彼等の熱が直接届いてこない。目の前に熱そうな物はあるのに、幕一枚向こう、舞台の上役者達の間で完結してしまっている印象は最後まで拭えなかった。所々うっと迫ってくる瞬間はある。それだけでも良いと言えば言えるけれど、物語のウネリにシンクロして、もっともっと持続して大きなウネリになって俺を襲って欲しい。(観ている俺がちゃんとシンクロできていなかった、感性が年寄りになってしまったって事であるかもしれないけれど・・・)
役者も何人かは、うっと思わせる勢いとポテンシャルを感じてこの先が楽しみだ。次の秋の公演は自分から進んで観に行きたいと思う。
物語は面白かった。けれど月と地球の合わせ鏡、月兎、肺呼吸、とくれば、どうしても野田秀樹の『野獣降臨 のけものきたりて』を思い出してしまう。遊民社と比較するなと言われてしまうかもしれないが、これだけモチーフが似てしまっていれば、テーマが違っていても比較されてしまうのは仕方がない。比較されようが何しようが、乗り越える気概が欲しい。言葉遊びに見せかけた複数の意味と思いの交錯についても同じような姿勢だと感じるのだから、なおさら比較の対象にしてしまう。残念な事だけれど野田の戯曲は完璧だ。直接ではなく、中継でしか観た事がないが、役者の肉体と完全な戯曲が一体になった『野獣降臨』の舞台は凄かった。再現のできない一度だけの体験としての演劇として、俺の中に強いインパクトを今でも残しているくらいだから。
戯曲、演出の彼にはぜひ気迫を持って、すごい戯曲をものして欲しい。舞台の神になる戯曲演出者としての後一歩を期待したい。

と偉そうな事を書いてきたけど、物を創る、演じると言う行為に触れて、良い刺激になったのも事実だ。満足な日曜の昼下がりだった。