『ワイオミングの惨劇』

トラヴァニアンの十数年ぶりの新作。熱心なトラヴィニストではないので、心待ちにしていたと言う程でもないし、『夢果てつる街』も良く覚えていない。
現代のウェスタンとして、興味深い作品だった。
クリント・イーストウッドが「ペイル・ライダー」で総括し、「許されざる者」で抹殺したアメリカの神話としてのウェスタン。インディアンもおらず、マッチョである事を無条件に肯定する事もできない。絶対的な悪役も、完全な正義の味方も設定できない現代では、古き良きウェスタンは成立しない。ノスタルジーをこめて定番の設定の中に、老体を晒した「ペイル・ライダー」は哀しい西部劇だった。絶対の悪役ではなく街の治安を維持すると言う目的の前では正義の側面も持つ老保安官を仇役に設定し、正義と暴力の問題を掘り下げた「許されざる者」は、勧善懲悪にもマッチョにも縁の無い重たいドラマとしてしか成立できなかった。「ラストサムライ」などは、すでに異国に舞台を求める事でしか敵役も、正義の論理も設定できないと取る事もできる。
前書きが長くなったけれど、この「ワイオミングの惨劇」はそうした既に死を宣言され、存在の基盤を失ったウェスタンをあえて舞台として選んでいる。もちろん勧善懲悪な物語などではない。主人公を始めとする登場人物逹や寂れた鉱山の麓の小さな街、そこにへばり付くようにして暮らす人達など定番の設定を使用しながらも、紡ぎ出される物語は、現代のものだ。
ドメスティックバイオレンスに苦しみ家を飛び出した年若い主人公、同じくDVのせいで狂気をはらんだサイコパスである敵役。マッチョでない主人公が、狂気の固まりと対立して街を救おうとする。主人公の心理は、しかし単純な正義感ではない、自分がよって立つ場所と人からの評価を期待して、そのために街を救おうとするのだ。こんな動機を持った西部劇のヒーローなどありはしない。現代に生きる人達の自分の立つべき場所を探そする人達の姿の姿と重なって見える。
その上で、作者の冷徹な目と筆は、主人公の「善行」から産まれる物、状況もバラ色にはしておかない。このどうしようもない救いようななさこそが、作者の顕わそうとしたものだろう。
「惨劇」は脱走犯が引き起こした多数の殺人だけでもなく、うらぶれた街での活劇だけでもなく、その後の主人公に対する街やそこに棲む人々との対立の事でもあるのだろう。
血は流れる事はないが、街を救ったはずのヒーローを英雄として受け入れることなく、排除し自分逹に都合の良いストーリーを作り上げようとする社会のあり方こそが一番の悲劇だ。
西部劇にすら単純な正義や、勧善懲悪な世界を見つける事ができない今は、とても息苦しい世界だ。こうしたある種の苦しい小説でしか、今を切り取る事ができない辛さは、救いがない。
せめて小説を読む時だけでも、ここにないファンタジーを求めてしまうのは弱さだろうか?
この小説のような作品は、もちろん必要だ。あと書きで紹介されている作者のマッチョな男逹に向けた言葉は、とても納得がいくし、そうした目的で書かれた小説には深く共感する。
この小説は、多くの人達に悦んで紹介できる深さと、面白さを持った小説だ。それでも娯楽作品として西部劇を現代に蘇させる事はできないものなのかとも思う。そりゃ一時的にしろ逃げるのは良くない事かもしれないけれど、せめて娯楽作品としてのウェスタンを読んでいる時くらいは、と言う気持ちもぬぐい去れない。
もちろんこの作者、作品にそれを求めるのは、まるで方向の違う間違った事なのは分かってるし、求めるつもりもない。作者作品に期待したもの以上の物が詰まった、良い小説だ。安心して読んで下さい。上に書いたのは単なるノスタルジーでしかないですから。