『カエアンの聖衣』 バリントン・J・ベイリー

奇想天外な設定ははずなのに、何故か読書中はその特殊さに気付かされる事のない、良質な侵略SF。全銀河に渡る衣服を使った侵略と言う、オリジナルティ高い設定だけで、勝ちだ。
作者のイマジネーションが宇宙を駆けめぐり、スペースオペラが展開されていく。まさにSFだ。思考を深めたり、人に深く切り込んでいくだけが、物語じゃない。そうした物語も、こうした想像が際限なく広がっていく物語もどちらも良い小説だ。もちろん作者の独りよがりなイマジネーションもどきのオナニーが延々と続くクソのようなただの文字の羅列も多いけれど。
その上で、この奇想天外な設定の小説は、衣服、装飾とそれが人に与える影響、記号としての服飾という事にまで読者の思考を導いてくれる。
俺は、この数年決まったブランドのスーツしか着ないが、それらのスーツが俺の人格に与える影響はとても大切だ。見得だとか、ブランドに着られているだとかしか理解できない奴は死んで良い。
ただ裸体を守り、温度の調整のためだけの物としての衣装ならどんなものでも構いはしないが、人が衣服を身に纏うと言う行為は、それだけではない。差異が産む記号としての意味を自分の身体の一部として、衣服を身につけるのだ。コスプレとしての衣装と少しだけ感覚は似ているが、周囲に対する意志やスタイルの表明と言う点だけではないと言う点が異なる。もちろんそこに自覚された意志があると言う意味では、コスプレの方がより強い意味があるかもしれないが。
そして良質な衣装は身体の持つ感性を外部へ延長し、意識を広げる事ができる。触れるだけで惚れ惚れするようなファブリックのスーツを身に纏えば一発で分かる事だ。精神のヒャクショーには一生分かる事じゃない。
その意気込みと矜持こそが、スーツに対する男の拘りを抱かせ、それをこそ洒落物と呼ぶ。金額の問題じゃないのはもちろんだ。価格でしか装飾を語れない奴は、精神のヒャクショー以下だ、そう言い切る。
これは服装に関する事だけではない、クルマと人との関係にも同じ事が言える。