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「新選組!」

ドラマ

第三十回「永倉新八、反乱」、三十一回「江戸へ帰る」
新選組池田屋事件をすぎ、新たな佳境に入っていく。一般的な山場の一つである池田屋襲撃は、ドラマとしても扱いやすい素材だ。あくまでも京都市中を警護する存在として謀反を企てる会津の浪士を始末すると言う、大義名分は善悪の判断を託しやすい。親新選組の立場か否かの違いだけで、現代の価値観で新たな説明をつける事ができるからだ。
しかしその後の彼等を描くのはとても難しくなる。特に大河にいらない期待を抱いている、正統的な手あかのついた分かり易い歴史が好きな今までの一般的な視聴者を納得させ且つドラマとして登場人物逹に感情移入させていくには、新選組の中で起こった出来事や彼等がとった行いは説明が難しい事柄が続くからだ。
若く単純だが勢いのある義に溢れ、何事かを成し遂げようとして集まった非力な若者逹は、簡単に言えば内ゲバと粛正を始めるのだから。もちろん捉える視点によってどうとでも解釈はできるだろう。しかし仲間内で殺し合い、仲間を裏切って行く事に変わりはない。ドラマとしての一番の簡単な逃げ道は、斬られる側を駄目でイヤな奴として貶める事だ。斬られて当たり前の存在として役を設定し、カタルシスを持って彼等の行いを正当化すればいい。
しかし三谷の「新選組!」はその簡単な解決を取らなかった。永倉や山南にも、土方にも近藤にも義あり、想いがある事から逃げなかった。どちらが正しいかの判断を安易につけずそれぞれの葛藤のぶつかりあり、想いのぶつかりありとして正面から永倉の反乱、山南の葛藤を描き拔いた。近藤のいないその隙にと言う土方のずるさも、同時に彼の壮絶で静かな決意も、その一方で深まっていく山南の不安と戸惑いも同時に等価として扱いながら、彼等の熱い想いをドラマで表現しきった。
わかりやすい勧善懲悪や、手あかのついた善悪の視点や、保守・改革のイヤな現代化を避けながらも、ドラマをしっかりと成立させた三谷の脚本は、ただただ天才のなせる技だ。
褒めすぎなのは、分かってる。あえて褒めちぎっている。誰も褒めてないから。ここまで正統(と言われている)歴史の価値観や歴史ドラマのセオリーに安易に立脚せずに、司馬遼太郎的な愚かな現代からの視点・価値観からの評価ををベースに置かず、時代の中での青年逹の熱さを普遍的なものとしてドラマにしたてる作業を飄々とこなしている作家を、誰も高く評価していないんだ。小さなブログの中で無力な誰かが褒めちぎっても良いではないか。
この先、山波が脱走し、斬られ、さらに仲間内の斬り合いも続き、社会の流れの中でやがて負け組の色が強くなっていき、最後には時代に抹消され断罪されていく彼等の存在をどうやって描いていくのか、興味が尽きない。
三谷さん、このまま凄い大河を最後までお願いします。

はは、熱くなりすぎだよな。たかがドラマで。