「キャシャーン」

タツノコプロの傑作アニメの映画化。公開当時から賛否両論話題になった、紀里谷監督の作品。
妻の宇多田ヒカルのPVで見せた独特の世界観を発展させたビジュアル、フォトジェニックな俳優陣逹の演技。日本に限らず世界でも比較する映画がない独特な作品にしあがっている。
諸々の評価や感想が溢れるた理由は良く分かった。
映画としての質感、映画としての画作り、世界の構築に関しては、高く評価して良いと思う。ロシアアバンギャルド風味のレトロフューチャーなプロダクトデザインは映画を観ている間不快感を感じる事はない。実写でもなくアニメでもなく過去にジャンルのなかった邦画として、面白い世界だ。エンターテインメントとしての映画は、第一は画と動きだと俺は思う。もちろん動きには止めやタメ、流れは必要だがあくまでもフィルムが作り出す動きこそが映画の核だ。もちろん物語としてのストーリーや思想やテーマも重要だけれど、動きの無い映画は、映画しての意味は無い。その意味ではこの映画は高く評価されて良い。樋口がコンテを描いたと言う、キャシャーンの戦闘シーンの美しい事、アニメ的でありながらセル画でもCGでも表現できない役者とCGで作られた画は、これだけで観る事の悦びを与えてくれる。予算や技術の関連で常時薄くかけられたフィルターも逆に質感の統一に貢献している。廃墟の上、月を背に立つキャシャーンにかかる炎の熱に朧に揺れるエフェクトの凄みは、他で観た事のない美しさだ。セントエルモスファイアーのようにキラキラと光るエフェクトはちょっと気色悪かったけれど。
で、問題は監督が意図したテーマだ。いまさらネタばれを気にする事はないだろうから、気にせず簡潔に書くが、ラストシーンに語られる言葉は、あまりにも安易にすぎる。憎しみのスパイラルを断ち切るための許し、そして許しあいの先にある希望。多くの命を犠牲にして、振り返った先にある結論がそれだけなのか?遠く地球を離れ、まるで関係の無い新しい世界への逃亡の先に許し合ったものだけが希望を育てる事ができる。救いもなければ、現実にまっすぐ立ち向かう意志もない。ただの逃げだ。映画の技術として台詞で唐突にテーマを語る事の、稚拙さをどうこう言う人達もいるが、その事を問題にする必要はないだろう。確かに映画表現としては下手くそだろう、その言葉を言葉としてでなく映画として投げ掛ける事が映画としての上手な方法だろう。しかし台詞でテーマを語ってはいけないって法もなければ、下手くそな表現がテーマの意味を消すと言う事はないからだ。その上で紀里谷が言葉として語りたかったテーマは、あまりに幼稚すぎる。それ以前の映画の中で展開してきた事柄とも断ち切れすぎている。ブライキング逹新造人間と彼等の根絶を図る人間との憎しみの連鎖から発生する闘い、人間が作った人間でない物への恐怖とそれへの攻撃。自分逹を作った創造主である人間の不寛容と拒絶への憎悪、そして反撃。許し合えぬ程の憎しみが蠢く中で、どちらの行動をも理解でき、優劣も善悪もつけられぬ闘いは、終わらせる事はできない。納める事しかできないのだと、樋口加奈子は告げるではないか。許し合えるものならば、説得をもって終わらされば良いのだ。しかし互いの正義や大儀、理を同胞や血縁者の血や命の犠牲をもって信じている集団に、そんな言葉が届くはずはない。流した血、怒りがなくとも誰かの正義は相手の不幸になってしまうのだ。ブライキング逹が先住のヒューマンオリジナルだった事で、さらにこの世界の不幸と悲劇は深いものになり、「許し合う事だったんだ」などと言う甘いだけの言葉は、力を持たない。あの語りが始まる寸前まで、最終兵器の爆破までこの映画が投げ掛けようとしていた事は、重く強い事だった。お互いが憎しみあう事しかできず、戦争と言う殺し合いに陥った時に、この悲劇を納める事ができるのか?どうすれば良いのかと言う想いを投げ掛けてくれるから。
しかし、この映画は最後の最後で観客を置き去りにして、甘い現実逃避と思考停止に落ちた言葉で幕を閉じてしまうのだ。残念だ。
闘いを納めるために再び戦場に戻った人が作った人でない物、人の記憶を残したままの人造の存在が示す事ができる道があったはずだ。ただ無根拠に許すのではない。そんな許しの先には、抑えきれない憎しみの再びの発露しか無い。それぞれの願う幸せが、相手の不幸になってしまう事、幸せを願う事が同時に他者に憎しみを産んでしまう事、人はそうした存在であり生きる事は幸せを求めると同時に、憎しみを植え付けるものである事を深く自覚した上で共存する道を示すしかないんだ。憎しみ会っても、その上で共存する道を無駄でも探し続ける事しかない。監督のパートナーである宇多田ヒカルの唄う主題歌が見せるそうした諦観と微かな希望こそが、本当の希望だ。幸せが不幸を産み、それでも自分の幸せを求める事は止める事ができない、願いが成就した時には、同時に泣いている人がいる事を自覚し、それでもみんな生きていくしかないと言う彼女の歌こそがこの映画が最後まで示してみせる事だったのではないか?不幸な存在である人にだって、最後の最後に憎しみを抱きながらも、共存する事ができる力はあるはずだ。そう信じるしかないじゃないか。憎むな許せなどと言う、馬鹿で何も考えていない言葉は、犯罪的だ。
最後の瞬間まで新しいビジュアルと、刺激的な動きと画で、アニメでも邦画でも扱う事ができなかった事を正面から扱おうとした監督の姿勢には深く共感する。ただ残念ながら最後の最後の甘さだけは共感できなかった。最後の簡易な言葉が反戦映画などと言うとろい感想を産むのだ。ただの反戦映画じゃない可能性を持っている映画なのに残念だ。人は愛する事ができるからこそ憎しみを持つのだし、憎しみを持たず許しあう事だけができる訳でもない。白黒明確な二元論の価値観などと言う幻想の理想でなく、複層的な存在であり関係である人間を描く事が少なくとも途中まではできていたのだから最後まで貫き通して欲しかった。
だからと言ってこの作品が駄作だと言うつもりは毛頭無い。監督が頭で意図したメッセージには共感できなかったが、この映画の中に自然に発生した映画独自のメッセージの可能性は高く評価する。
アクションのキレや、キャシャーンヘルメットの扱い、画としての構成や力、原作へのリスペクトの処理の仕方など他に高く評価して良い点は沢山ある。キャシャーンの母が眠るベッドがあのスワンである事のセンスのかっこよさはどうだ。ドリルロボの街への登場のアニメのツボを抑えた上での処理の仕方のかっこよさはどうだ。この監督にはテーマなどと言う退屈な事を忘れ、映画をぜひ作って欲しい。

とここまで書いてサイゾーの紀里谷インタビューを読んだ。
良い奴じゃん。最後のつめの甘さには共感できに事に変わりはないけれど、遠くにまでボールをなげようとした姿勢には深く共感した。真摯であろうとする事はなんら悪い事じゃないし、かっこわるいと感じる奴はほっておけば良いんだ。
こういう奴と飮みたいな。イヤ喧嘩しながら物を作りたいな。飮むだけだとなあなあになるから。