「ミリオンダラー・ベイビー」

土曜のお台場シネマージュのレイトショー。スターウォーズの先行レイトショーで賑わっていた。
同じ映画でも、まるで違うモノだ。優劣なんてない。それにしてもイベントムービーとは別世界だ。
浮かれている連中に殺意さえ覚えた。

(いつも通りネタばれありの感想です。がこの映画はできれば出来る限り前情報は無しで観て貰いたいと思います)
静かな映画だ。前作「ミスティック・リバー」もそうだったけれど、抑えに抑えた演出は、光と影の重ささえもリアルだ。泣かせる気になれば、いくらでも泣かす事ができるのに、安易な煽りは一切排除されている。説明さえも最低限のものしかない。それでこそ、クリント・イーストウッドが投げ掛けるものが津々と響くのだ。
前半のボクシングでのサクセスストーリーは、そつの無い職人気質な監督がとったある意味典型的なハリウッドストーリーだ。コーチの言う事を聞かない自分勝手な性能のあるボクサー、しかも女。それでも勝ち進み、ボスとの間に信頼関係とそれ以上のものが生まれる。同時にコーチの中にある過去の痛みも乗り越えられていく。このままラスベガスでのショーで汚い女チャンピオンを倒すか、ぼろぼろになって負けるかすれば、立派なハリウッドムービーだ。勝とうが負けようが、ボクシングムービーとしては成功だろう。
しかしイーストウッドが俺達になげて見せたのは、そういった当たり前の映画のコードを超えたものだ。
貧困とアメリカの底辺から這い上がりたいともがき、人生の後半に突入しようとする時にも何者にもなっていない自分から脱しようともがき続ける独りの女性。周囲は誰も手を差し伸べようとしない。その他大勢の人間が歩道だ。アメリカだろうが、日本だろうが、多くの人間がそうなんだ。何者かになったつもりでいようがどうであろうが、実際にはつまらない存在だ。そんな人物が、肉体だけで闘い勝敗をつけると言うシンプルな世界ボクシングで、タイトルマッチにまで登り詰める。しかしフェアでない状況によって全身不随へとなる。救いすらない。彼女へダメージを与えるのは、イーストウッドが出した椅子なのだ。二人に一切に救いはない。この全ての救いのなさが、イーストウッドの俺達につきつけたかった事の一つだろう。こうした状況で生きている現実、家族の絆と言う安易で分かり易い夢すら壊して、俺達に現実を突きつける。
そしてそのまま映画は、生きる事、生きるために死ぬ事、繋がった対象の意志の尊重へと移る。救いの無い現実の中で、それでも生きたものだけが、選択できる生きる方法。延命する事、生存し続ける事が生きる事なのかと言う問い。マギーは生きた。延命する事はその生を意味の無いものにする事だ。生きた人間の尊厳を奪うものだ。
深い影に包まれながらイーストウッドは、マギーの生を最後には肯定する。生命維持の装置から彼女を自由にするだけでなく、幸福へのクスリも与える。彼が迷いに迷い拔いて行った行為の罪深さと潔さと、「愛」を俺達は受け止めなければならない。神と言う「お気楽」で「お手軽」な救いは彼を楽にする事はできない。教義や建物や役職が救いになるわけがない。流した涙と、深い悲しみだけが彼を救うのだし、本当の救いが無いと分かるからこそ、レモンパイ程度の慰めしかない状態で後を去るしかないのだ。
許されざる者だと言う自覚とともに、自らが選択できる最善の方法をとった老齢のヒーローの、あまりに弱い背中に、共感した。流れる涙が止まらないと言う、分かり易い感動巨編じゃない。静かにゆっくりと効いていくる本物の映画だ。パワーではない、内なる力と迷いを内在させる現代のヒーロー、イーストウッドにはかなわない。彼の打ち付ける思いジャブをしっかりと腹で受け止めて、その痛さを自覚を持って日々を生きていきたい。