「崖の上のポニョ」

凄いものを観た。正直な感想だ。
色彩とイマジネーションの奔流に、冒頭から終幕まで圧倒され続ける。
物語は、シンプルなものだ。メッセージや思いを投げかけるものではなく、意識的に贅肉を排除したボーイ・ミーツ・ガールのハッピーエンディングだ。
現代の少年少女に向けて、人を思う事の大切さを正直に伝えるための物だろう。物語を理解させるのではなく、物語を感じさせる。出来事とイメージの積み重ねで物語を子供達に想像させる。そうした意識の強い構成は、純粋に子供に伝わるだろう。大人にとっては、そのためのイメージの積み重ねが理解できるか否かで、評価が分かれてしまうだろう。お母さんが子供にベッドサイドで読み聞かせる、カラフルな絵本。想像力が広げる物語の世界で遊べるかどうかだ。感動的なお話や、メッセージを読み解けるようなストーリーを期待して画面を見つめていた、俺たちを含む観客たちの、鑑賞中のなんとも言えない微妙な居心地の悪さや、上映後の置いてかれた感は、ここに溢れるイメージに翻弄されながらも、普段の習慣によりアタマでの納得をしようとしてしまうせいだろう。アタマで観ちゃいけない作品なんだな。少年の冒険に同期して、後は圧倒的なイメージに身を委ねる。そんな見方こそが、この作品を楽しめる方法だろう。次回はそうやって観てみたいと思う。
そして、画面に溢れ続ける宮崎監督のイマジネーションの産物は、トラウマとなって子供達の心に影を落とすんじゃないか?と思うほどに、強烈なものだ。足枷や表現上の枷をかなり低く設定し、宮崎監督の抱く、海や世界のイメージが、かなり自由奔放に広がっている。もちろん海だからこその生や死、暖かさと厳しさ、恐怖なども、なんのためらいも無く表現に取り込まれている。だからこそ、色彩の美しさに見えがたくなっているが、不気味で人の影の部分からしか生まれないイメージも多々見受けられた。ポニョの母の登場シーンなんて、悪夢のイメージ以外の何ものでもないぞ。大海を彷徨う巨大な美女の顔が、海中からにょきりと現れるなんて、どうしたって良識的なイメージじゃないだろう。
明示こそされないが、死や性や、海の恐怖などがそこかしかに姿を見せ、それらを画面上は美しく圧倒的なものとして描く作画と演出力は、もうただただ感心するしかない。
死のイメージは、かなりストレートに表現されていて、今までの宮崎作品以上にシンプルな形で物語に組み込まれている。子供達のために足されている物語後半のシーンが無ければ、あまりにストレートに死への恐怖と克服が物語のテーマを表してしまっている。
ここまでストレートな表現を、エンターテインメントの作品として、大人、子供、老人、善良な人、すねた人たち、全てに提供してみせた宮崎監督の、制作者としての気迫は、賞賛してもしすぎることはない。もう70近い年齢で、作り込まれた物語や、気負ったメッセージなどで無理な制作をするのではなく、未だ枯れない創造力の力が形作るイメージの奔流で、観客全てに物語を魅せるなんて、作ることへの執念以外の何物でもないだろう。ストイックで人の悪い、ホントの意味でのクリエーターだ。ここまで描いたら、それこそいつ死んでも良いと思ってんじゃないか、と疑いたくなるくらいの気迫だ。
最後に、セルアニメ・宮崎アニメとして、動きがすばらしいシーンが多いのも嬉しいところだ。ポニョが宗佑に再び会うためにやってくる時の、津波=魚の動き、その上を走るポニョの動き。鳥肌が実際に立った。ご愛嬌のワグナー風の楽曲は正直じゃまだったけど、溢れ迫ってくる波の姿と圧倒感とスピードそして、ポニョの動きの生理的な心地良さは、これぞアニメだと感じさせてくれる。宗佑の母の軽自動車の動きも、往年の宮崎アニメファンも喜べるものだし、その上で今の時代だからこそ表現できた手書きの動きの緻密な大胆さ。動きこそがアニメやイマジネーションの原点だと、直接的に魅せてくれるシーンが、ここ以外にもたくさんある。アニメ映画を観ること、感じること。そうした喜びを与えれくれる怪作であり、傑作だと思う。