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日記 日記

昨年末くらいから、ブログを書かなきゃいけない。書きたいと漠然と考えていた。
政治や経済、日常の事、様々なブログや記事を読む毎日の中で、頭の片隅にひっかかったまま、結論や答えの見えないものがあった。

二元論的な良し悪しや、単純な正義や悪が無いこと、相対的価値観、そんな事は理解しているつもりだが、報道や個人の記事を読むにつけ、誰のための誰に向けたものなのか混乱と不明を感じる時が増えていた。
例えば政治。民主党の行いを売国だ、無脳だと書くのは簡単だ。自明の事として、今なら多くの人達と状況や、書かれた言葉の意図、書かれた事で次に起こる/起こす事も共有できるだろう。
だがそこに書かれている記事が前提としている善悪の基準、背景に持っている理想としている世界や状況が、本当に共有できているのだろうか?筆者や読者があたりまえだと思っている事がはたして、完全に共有できているのだろうか。
極論で簡単に例えると、
「人は健康的で、できる限り長生きをするべき存在だ」と言う無言の前提があるから、後期高齢者保険など高齢者の保険や保証が問題になる。だが「人は自堕落でも楽しく毎日過ごせば長生きする必要なんて無い。長生きは退屈な生き方だ」と言う前提で生活する人ー俺みたいな人たちには、問題そのものの設定が間違っていることになる。そうなると高齢者の保証の話をする前に、人はどうやって人生を過ごすかと言う前提をすりあわせない限り、その先の意見が噛み合うことが無い。お前の価値観はマイナーだ、間違っていると大きな声で言えばおしまいな問題じゃない。マイノリティ、メジャーだけで割り切れるならこんなに簡単な事はない。

相対的な価値観を肯定し、人はそれぞれ違うんだと、間違ってはいないけどその前提としての明確な範囲の規定や、相対化の限界と無力を知らない限り実際には意味を成さない言葉が、安易な自己肯定の言葉として軽く大量に流通している現在、どうやってこの相対価値を超えた点に立って言葉をつむぐのか。
抽象的すぎる説明で申し訳ないが、書くことの意味をずっと考えていてひっかかっていた部分はここなんだ。

何のために言葉(記事や物語)を記すのか。
誰にその言語を伝えたいのか。
伝えた言葉を受けた誰かに何を期待するのか。
自分が表明している意見が、誰にとっての利点になり、害になるのは誰なのか。

意図もなく、溢れる言葉を何かの形にしたいだけなら、別に悩む必要はない。
誰かに届かせたい言葉があり、届かせたい理由がある。

その答えを見つけたい。そんな想いがここしばらく続いていた。その答えの片鱗を、この数ヶ月の間に一瞬触れた気がした。言葉を記したい、欲求を形にもしたくなっている。
ここではないが、どこかで、近いうちに「自堕落」な生き方の言葉を、伝えたい誰かのために書こう。