「黄金のアデーレ」 チャーミングなお婆ちゃんに恋してしまう?

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今年に入ってなぜだかナチス関連の映画が続いた。「帰ってきたヒットラー」「ミケランジェロ・プロジェクト」でこの「黄金のアデーレ」だ。

読んでる本も船戸与一の『満州国演義シリーズ』でファシズム関連の作品が重なっている。別に意図したわけではなく、たまたまだけれど、こう重なると愚民愚集と独裁について思いを馳せざるを得ない。

政治信条について声高にアジるつもりはないし、意味がないのもわかってるので、映画や本の感想を通して語る事になると思う。

 

あらすじ:第二次世界大戦後期、ナチスのオーストリア侵攻の際に略奪されたユダヤ資産家が保有していたクリフトの絵画「黄金のアデーレ」の所有権を持つ老齢の女性が、オーストリア政府に対して法定で所有権を争う。

絵画の帰還については史実どおりだから、法定での決着ではなく、それをめぐる登場人物たちの言動や心情が、この映画の描くポイントだ。

 

名画のモデルが、戦中まで生きていた事、歴史のひとつだと思っていた絵画が創作の関係者がまだ存命しているほど現代に創作されたものである事に驚いた。ピカソゴーギャンもダリもそうだから、考えてみたら当たり前の事だけど、クリフトの耽美な絵画が現実に地続きなものだと言う事をすっかり忘れていた。

その絵のモデルアデーレの姪である主人公の老婆が、アデーレの思い出、意思、一族の歴史と誇りを守るために、オーストリア政府を相手に挑む姿に心動かされた。

 

主人公の造形が素晴らしい。強い意志とチャーミングな愛嬌、知的な態度と感情的な言動、伝統を大切にしながら現実とも折り合う生き方。自身にとっての誇りを守りながら生きてきた女性の歳を重ねた姿として、多様な側面が様々なシーンで描かれ、彼女の信念や芯がしなやかな強さとして伝わってくる。映画を通して、チャーミングな彼女に恋をしていた。

後半のあるシーンで、いままできっちりとセットしていたテーブルセットを揃えることなく、空の皿を前にして泣き崩れるシーンに、強い共感を抱くのは、そうした彼女の有り様の先にずっと殻に閉じ込めていた弱い一人の女性の姿、戦中家族に守られていた頃の姿を感じる事ができるからだ。

主人公を演じたヘレン・ミレンの演技を観ているだけで充分に楽しめる映画だった。

 

作中、戦中のオーストリアの様子が度々描かれる。絵画など美術品の略奪、ユダヤ人への弾圧など、一般的に認識されているナチスの暴虐な行為だ。しかしこの映画はそれとあわせオーストリアの市井の市民がナチスを歓迎している姿も描いている。

ウィーン侵攻の際の熱狂的な歓迎式典、ユダヤ人の告発を進んで行う姿など、決して恐怖政治的で無理矢理にナチスに従ったわけではない様子がきっちりと描かれる。

戦勝国歴史観や倫理観が正当な歴史だとよく言われる通り、今の世の中から見ればヒトラーナチスは絶対的な悪だ。敗戦国も自分たちの過ちを「悪者」に押し付けることで責任を回避し、素知らぬ顔で今を過ごしている。

この映画の面白さの一つは、こうした在り方の象徴として「黄金のアデーレ」の所有権を争わせている事だ。

 

真の所有者の存在を認め返還すれば、この絵を略奪したナチスの行いを受け入れ彼らを支援し認めていた過去が顕になる。だから主人公たちの主張は間違ったものであり、「黄金のアデーレ」はナチスの略奪の結果ではなく、持ち主の意思によりオーストリアに寄贈されたのだとする主張を、法定ではなく多くの市民が聴講すら委員会で覆す物語の結末は、当時のファシズムに対して積極的に歓迎し受け入れ同調していたことを認める事にもなる。

 

ファシズム=完全なる悪、ではないし、もちろんナチスの行いが善行だったわけでもない。しかし、当時の悲劇はナチスだけが起こしたことではない。彼らを選び育てたのは一人のひとりの市民で、その状況を作ったのは第一次世界大戦戦勝国だ。誰一人悪行の責任から逃れる事はできない。

分かり易い悪者に全ての罪を被せ、被害者の顔つきで過ごしてきた戦後を、物語の裏側で静かに告発していく。

名女優の演技に魅せられ、凛とした主人公の心の動きに心熱くされ、深く考えさせられる、派手ではないが上質の映画だった。