「虐殺器官」 映画 英語しゃべれなくて良かった〜

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Project Itohの大トリ、ついに公開。

傑作。大傑作。

制作会社自己破産の危機を乗り越えて、良く公開までこぎつけてくれた!

経緯につては、こちら

この作品が日の目をみなかったら、大きな損出になるところだった。

 

大傑作とは言ったが、誰にでも薦められる作品じゃないのも確かだ。

ついでに書くと、「映画を観る事」「映画を語る事」についても考えさせられた。

長くなりそうなのでそれは、また別な話としてこちらで。

この映画で得て感じるものは、誰もが体験を楽しめたり、カタルシスを得たりできるものではないからだ。

 

人は意識を持って自主的に行動していると思い込んでいるが実際には、先に言葉があり意識が生まれると言う事を、「虐殺器官」「虐殺の文法」と言う虚構をもって露わにする。

理性的であると同時に人は残虐であること。それはけっして理性でコントロールできるものではなく、自己生存を目的とした利他的行動と虐殺は、その本質においては同質なもので、対立する二元的なものではなく、人の根本にある生存のためのみにアプリオリに持つ器官=本能だと言う真実。

その上で自らが愛しいと思うものを守るために他者を虐殺の犠牲にする事。そうした不都合な事を意識せず見ない事で成立する熟しすぎた私たちの住む先進国の現実の姿。

見えない他者に対しての罪からそうした世界でも虐殺の本能を解放し世界を変えようとする主人公の最後の行動。

このスリリングで危険なヴィジョンを、高いクオリティのアニメーションで描ききった映画が面白くないわけないが、万人が楽しめるとは思えない。

 

原作の小説を読んだ時に、ああこれは「闇の奥」なんだなと思ったのを覚えている。

狂気の存在を追うために密林の奥に進む事で、同時に人の心の奥に踏み込んで行く主人公、その主人公が「狂気の人」の騙りに触れる事で、「理性」と「狂気」の意味や根拠が崩れ、キリスト教的な価値観と近代西洋的な二元論を基にした価値観を超えたものを読者に突きつけてくる。

現代のテクノロジーや最新のミリタリーガジェットを衣装として纏い、乾いた文体と覚めたユーモアと諦観に近い冷たい社会観で残酷で独特な世界を築きながら、「闇の奥」で提示されたテーマを現代にリブートしていると感じたのだ。

 

映画を観終えて、ストーリーの展開や構造は特に似ていたわけではないが、テーマはやはり「闇の奥」に連なるものだと再確認した。「闇の奥」へ進みその先にまで歩みを進めたものだ。

 

原作で印象的だった母のエピソードや、細かな展開を削除したのは、この作品のテーマを一本の映画としてまとめ上げるのに大きく貢献していると思う。

伊藤計畫の小説は、何かに代えられるものではないし、彼の文体で描かれる内面を饒舌に語る主人公は、とうてい映画で描く事はできない。小説で描かれたコアを映画として伝えるための方法としては見事で最適な構成だ。逆に原作の大ファンからしたら物足りない駄作に写るかもしれない。しかし、伊藤計畫が書いたミリタリーのガジェットや戦闘などが映像としてスクリーンで描かれる様子を観るだけでも十分価値がある。

 

物語で伊藤計畫が描いた刺激的なヴィジョンを、言葉と言うツールを使えない映像で見事に描ききったこの作品は、不都合な真実を顕にしスリリングで強烈な刺激を脳に突きつけてくる。残酷なシーンも多いが、欺瞞や上っ面だけの綺麗ごとの優しい理性に閉塞感や厭気を感じている人にはぜひ観てもらいたい映画だ。

 

 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

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闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

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