『郵便屋さんちょっと2017 PS. I love you』 舞台 つかかどうかは関係ねえ こともないか

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新宿 紀伊國屋ホール

 

つかこうへいの戯曲とエッセイは、80年代10代だった私の身体の一部だった。

つかこうへいと栗本慎一郎村上龍で、自分の身体と思想はできていた。何かといえばそう口走ってた。

自意識過剰でニューアカ、サブカル気取りの、田舎の嫌な文系高校生だ。

 

つかこうへいの戯曲を初めて読んだのがこの『郵便屋さんちょっと』が収録された『戦争に行けなかったお父さんのために』だ。

自意識と社会の中であるべき事への過剰な追求、ケレン味とそれをまとわざる得ない強烈な照れ、暴力性と愛情が表裏一体になり絡み合ったマイノリティの複雑な愛。革命を口にして生きたはずの周囲への絶望とすがる希望。自意識と共同幻想とギャップの間でもがく人のサガと業。

脳味噌と体中が痺れた。

馬鹿と文化がわからない田舎モンばっかりだと周囲に絶望していた自惚れたガキには、強烈なストレートパンチだった。

地方の一般家庭の高校生は、生のつかこうへいの舞台を観ることはなんてできるはずもなかったし、大学入学で上京してからもたった一度だけ、牧瀬里穂が観たいという理由で西洋劇場で『幕末純情伝』を観ただけだ。北区の舞台にもあえて行かなかった。

なぜなら最高の舞台は戯曲を読んで頭の中に構築されていたから。これ以上の傑作が本当に上演されるのか不安で舞台には行けなかった。

もちろん今は大後悔しているのは言うまでもない。

 

そんな戯曲がつかじゃない人の手で再演される。しかも一時代つかと共に歩んだ元編集者の出版社社長の熱い支援を受けてなんてことに、期待が高まると同時にまったく期待できないという両極端な気分を抱いてしまうのはしょうがないじゃないか。

 

オリジナルの戯曲はあくまでも原作で、演出の横内謙介が上演台本を書き、現代のエンターテイメント舞台として、頭から終わりまであっと言う間の小劇場でのエンタメ大舞台に生まれかわっていた。

人と人を結ぶ郵便屋だからこそ、運ぶ価値のない手紙を書くようなヌルい書き主を批判し、純粋に吉報を待つ阿呆に希望を与える配達を考える。例え手紙を盗み読んでも。という主人公達の行動と世界は同一だが、学生運動や政治の話しは後退し、愛の物語が大きく広がっていた。

 

現代につかが蘇ったのか?この脚色によってあの当時の小劇場の劇団の熱、観客の快楽は呼び戻せたのか?

 

つかこうへいが蘇ったかどうかはわからないし。正直どうでも良い。すでに死んだ作家だ。最高の舞台は記憶と共に自分の頭の中に、彼の言葉は本としてすぐそばにある。

 

演劇の熱や観客の快楽は間違いなく今日の劇場にあった。

テーマだとか心に響く何かとは関係ない。

喋って動いて泣いて笑って歌って踊って、身体を使って一枚の板の上を縦横無尽に使って観客を引っ掻き回す。上品だとか高尚な技術や手法や高い文化性や評価とは無縁に、ただ笑わせる泣かせる驚かせる喜ばせるためなら何だってやる、ベタだろうが浪花節だろうが舞台と身体の全てを使う。

楽しくなはずがない。

観客の反応に怯え、だからこそ徹底的に挑発し、あらゆる手法を使ってこれでもかと舞台を作っていったつかこうへいらしいと言えば、まさにつかこうへい的だ。終演後くじ引き大会やる劇団なんてあとにも先にも彼んとこだけだ。

その姿勢、その演技、その志の真摯さだけが、舞台の上で問われるのも同じだ。

 

今日は学生優待日だったらしく、周りは10代の学生だらけ、しかも10人を超える大集団で、正直なちゃんと感激できるか、その無駄口を上演中も続けるようなら叩き切るぐらいの心中でいたが、幕が開いた途端に彼ら彼女らも全員が、大きく笑い驚き拍手をしていた。

こんな体験したら後が大変だぞ。

なかなかこの熱を与えてくれる舞台はそうないから。

色々な意味で面白い舞台はたくさんあるが、この熱とサービス精神に溢れたエンターテイメントを別な場所で探すのは難しい。

それでも生の舞台にしかない観劇の喜びを一人でも多くの10代に知ってもらえるのは嬉しい。

彼らを喜ばせるため、彼らにまた別の形の舞台の快楽を経験させるため、そんな動機が一部になった新しい舞台の流れができてくれれば、今以上に舞台の世界が豊かになる。

少なくとも一部のタレント事務所の都合でやたらと増える、原作ありの舞台もどき、舞台らしきものが相対的に後退してくれるだけでも嬉しい。

 

上演期間も短いし、週末には東京では千秋楽だが、日曜の昼にはまだ空席があるらしい。

ぜひ体験してほしい。