『少女』 映画 私たち、普通の女の子に戻ります!

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冒頭の演劇のような台詞のやり取りからこの映画は観客を煙にまく。

些細な部分まで徹底的なリアルな表現ではなく、演劇的な空気の中で、抽象的で観念的な事が、少女たちによって語られるのだと言う宣言みたいなものだ。

 

その宣言に違わず、二人の美女モデル本田翼と山本美月によって、友情と同性愛の間のような感情が語られていく。

 

たった一人の友人を想って小説を書く連ねる少女本田翼。

避けられない家族の因果によって剣道を諦めた友人を守ろうとする山本美月

二人とも非現実的なまでの重い想いを、大切にするがために裏切られた気分になったり、絶望を感じたりする。

 

そんなこんなの二人の美しい姿を観ているだけでもこの映画を観る価値はある。

 

が、この映画のコアは、解りやすいかたちで提示される因果応報だ。

主人公二人のすれ違いから再度の共有はもちろん、脇役の女子高生や稲垣演じる痴漢の冤罪で家庭が崩壊した男まで全ての撚り合わされる糸が因果応報に捕らわれている。

 

巡った因果の結果訪れる諸々の出来事が、カタルシスを与え観客が溜飲を下げるための映画でないが、痴漢冤罪で金を稼ぐ少女の家庭がああであったことによる顛末は、素直に正義を感じさせてくれる。安易なのはこの辺りのラインだけだ。

 

男には肌感的に理解できない10代女子のドロドロした心情は行動については、語る言葉を持たない。

そんなんだろうな、大変だよなとの共感しかできないが、本田翼が絶望を感じる2つのシーン盗作と裏切りに関しては、彼女の叫びに篭った辛さを実感した。

人生に達観したつもりで全てに斜に構えた頭でっかちな10代が、性的な事ではなく死ぬことに強く興味を惹かれながらも、ひょんな事から優しさに芽生えその結果としての親切が売切られる形で事件となった時の絶望と救いのない描き方は、シンプルなだけに刺々しく心に響く。

 

実直に妥協することなく選択した稲垣吾郎の演じる男性こそが、この映画の世界では 本当の救いで、周囲からどう言われようとも正しい。そんな男性にも拒絶されてしまうと慄く山本美月の感じる純粋さはまた違った形での救いだ。

傷つく事ができる。自分を恥じることができる。その上で足を踏み出せる事が、明日へ繋がる希望だ。

 

屈折し悩んだ美少女二人が自転車に乗って進むシーン。それに被さるもう一人の少女ののシーン。交わり会えない行く末の違いは切ないが、それも因果だ。

 

単純にに笑いあえる時間を共有できた姿に心満たされながら、重い気持ちで幕を閉じる。なんとも監督の術中に嵌ってしまったような微熱のような魅力の映画だ。