納涼歌舞伎 『桜の森の満開の下』舞台 新しい古典の生まれる瞬間

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野田秀樹、夢の遊民社の代表的な舞台を、ほぼ戯曲をそのままに歌舞伎の舞台にした作品。

驚いた。本当にまんま遊民社の戯曲をそのままに通りなのに、所作や言葉遣い、動きや鳴り物が変わるだけで、こうも違ったものに見えるのか。

 

野田秀樹が演じた耳男を勘九郎が演じ、埜田とも父とも異なる飄々とした男を表現していた。

オオアマの市川染五郎、夜長姫の七之助、それぞれが、当て書きわされたかのように怪しく妖しい存在感を示していた。

いわゆる古典歌舞伎とは異なる、筋立ても人情も勧善懲悪もない、野田秀樹らしい言葉と幾重にも重なったイメージが意味を伝える舞台だが、板の上には歌舞伎、現代の歌舞伎が広がっていた。

勘三郎さんは、空の上で悔しがっていたことだろう。鼠小僧などの野田版歌舞伎は古典の世界の話しを今に演じていた舞台だったが、桜の森の満開の下は、現代の新しい歌舞伎そのものだったから。

 

年初に公演のあった『足跡姫』は、野田秀樹から盟友勘三郎への想いだったが、そこに溢れていたイメージは、そのままこの桜の森の歌舞伎の板に繋がっていた。舞台をところ狭しと散る薄桃色の桜の花弁は、友を送ると同時に未来を迎え入れる花道だった。

 

とても良い舞台体験をする事ができた。

 

野田秀樹が、安吾の物語をどう継承して広げ踏みつけ時分のものとしたかの話しはまた別の機会に。