『エイリアン コヴェナント』 映画 想像してごらん、創造する事と創造される事を。

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前作の『プロメテウス』の記憶が、落下する巨人の宇宙船から逃げる女二人。しかも何故彼女たちは横に逃げない?しかなかったので、再見してからの観賞。

 

新エイリアンシリーズは、創造主と被創造者の相克がテーマだ。

神と人、人とアンドロイド、巨人とエイリアン、アンドロイドとエイリアン、それぞれが何故自分は創られここにいるのかを問い続け、被創造者が創造主を殲滅する。

 

誰も観たことのないSFホラー『エイリアン』から随分と大きな話になったものだ。

ピカピカのセットではなく、薄ら汚れた作業船のリアルな船内の中で、ヌメヌメした悪意の固まりのようなクリーチャーが殺戮を繰り返す。

古くからあるジャンル映画でありながら、造形や世界観が、今まで観たことも無いもので、意味なんか無くても、純粋に怖かった。

 

シリーズを重ねて、新進気鋭の尖った監督達が世界を広げ、SF映画として深いテーマを扱うようになった今時のエイリアンは、そんなに単純なものには戻れないのだろう。

 原点回帰と言いつつも、大きなテーマを捨てることなく、ある種の信仰を問うSFスリラーになっていた。

 

宇宙に出た人を心底恐怖させ、やがては地球を絶滅にまで追いやる存在エイリアンは、人の造ったアンドロイドが完璧を求め進化させたものだった。

この捻れ具合がたまらない。

仰々しい壮大なワグナーも痺れる。

が同時にエイリアンじゃ無くてもよいじゃないかとも思う。

少なくとも生理的な怖さを体現したクリーチャーで映画館の暗闇を恐怖で満たした、オリジナルの監督リドリーには、頭で感じる恐怖でなく身体で感じる恐怖を、美しい映像で魅せて欲しかった。

まあ『プロメテウス』の続編だから、こうなるのは仕方ないけれど。

 

新エイリアンシリーズの主役、アンドロイドのディビッドの行いと、創造主としての自覚の無い人間の愚かさに着目し、壮大なテーマの奥にある根元的な恐怖を味あうもよし。前作で府抜けていたクリーチャーが、オリジナルギーガに戻った瞬間を楽しむよし。

楽しみかたは人それぞれだ。期待する方向も、エイリアンへの思いも各人各様だ。

駄作になるか傑作になるか、完全に観客次第の映画だ。

 

私には、頭の中ではとても良くテーマをまとめたなと感心しつつ、身体は不満足に感じた映画だった。

超絶に美しいオープニングシーン。薄ら寒い不穏な緊張感。リドリー・スコット監督の演出力が溢れ出る冒頭から眩惑されていただけに、残念な気持ちが残る。

 

一番の不満は、表の主人公女優が微妙に不細工な事だ。エロスも感じない。

オリジナルのリプリーの不細工なようで美しく、うす汚れた姿ながらも健全な肉体から感じるエロスは、実はエイリアンにとっては欠かせない物だと思っている。

何故なら、エイリアンの一番の怖さと、それをわかった上で魅せられてしまう己に感じる恐怖は、エイリアンという猛々しい理不尽な暴力の固まりに、なすすべもなく追い詰められ、滑った器官で貫かれ絶命していく事だから。

する側でもあり、される側でもありえる人としての快楽と絶望の狂喜が、エイリアンをエイリアンたらしめていると、私は今も思っている。

 その意味では『コヴェナント』はあまりにも高尚すぎた。いや高尚だけ過ぎた。