『DEVILMAN crybaby』 Netflixオリジナルアニメ 絶望をよくぞ描き切った
『マインドゲーム』の湯浅監督が、デビルマンを現代に甦らせた。
フラッシュアニメで、監督特有の動きを見せるティザー予告を見たときから、期待は高まるばかりだった。期待は裏切られる事なく、Netflixで全10話を一気観した今、興奮で脳が震えている。
『デビルマン』とは何か?
それは破滅と絶望の物語だ。
人への絶望と嫌悪こそがデビルマンの本質であり、だからこそ登場以降、数多の人々に強いトラウマを与えると同時に、強い影響を与えてきた。
冷戦、核戦争への恐怖という時代背景を持つからではなく、人の基底にある正と邪の醜悪さを直視した永井豪のストレートな怒りがあるからこそ、今でも他に類をみない強さを持つのだ。
その本質から目をそらす事なく、デビルマンを甦らせた湯浅監督はいくら賞賛しても足りない。
地上波では絶対に表現する事ができない内容を、Netflixという媒体の特性を武器に表現し切った。
エログロを描く事なく、グロテスクな人の有り様と絶望を描く事などできない。
今時では、メジャーな映画会社でもエログロと暴力をここまで描く事はできないだろう。
剥き出しの人の姿を描くのが湯浅監督の特質だと思う。
時には愛、特には無名な人たちの努力、時には暴力を、 画の動きというプリミティブな力で圧倒的なものとして観客に提示する。
良心や倫理に従うものだろうがそうでなかろうが関係ない。映画サイズかテレビサイズかの違いくらいだ。そして、どの作品も鑑賞後に残るのは強烈な感触だ。
この『DEVILMAN crybaby』では一見、人は信じるにたる存在で、愛と信頼こそが救いだと思わせる。
がそれは間違いで、人こそが悪魔で世界こそが地獄だと言う絶望を突きつけられる。
美樹がSNSにあげる明への思い。悪意と善意に溢れるリプライ。それでも美樹は明を信じ、希望のバトンを繋ごうとする。しかしその先に待っているのは、美樹を背後からナイフで刺し殺し生首を掲げる人々の姿だ。
デビルマンが無実の人々を救い希望を感じたその後で目にするのは、美樹の生首を掲げ雄叫びをあげる人々の姿だ。
繰り返し描かれるのは、人の身勝手な正義と信頼の脆弱さと、正当な自己防衛から発する醜悪で残酷な行いだ。
そのどちらも持つものこそが人間だという永井豪の告発を、こうも鮮やかに描かれれば新たなトラウマにならざるをえない。
創作物は、常に前向きで健全であるとは限らない。
醜悪で残酷だが目をそらす事のできない真実の有り様を突きつける事だって必要なのだ。
鑑賞者を絶望に陥れる事にこそ意味のある作品もある。
湯浅監督は、優しく女性的な現代に阿る事なく、永井豪のデビルマンを最高の形で今に投げかけてくれた。
この作品によって多くの人々に、新たな絶望とトラウマを植え付けられれば良いと思う。
その絶望を越えるために考えて行動することでしか、希望など生まれないのだから。
crybabyとは誰だったのか?
確かにこの作品の不動明、デビルマンはよく泣く。また美樹やミーコや他の登場人物たちの涙も印象的だ。
しかし一番心に響くのはサタンの涙だ。有名なラストシーン、明の横に並ぶサタンが流す涙は切ない。
同情や愛を必要だと感じることなく過ごしてきた飛鳥了が、明との関係の中で最後に見つけたものとそれを永遠に失った事を知った事ではじめて流す涙に、救いはない。それでも明と同じように涙を流し続けるのだ。
私にはcrybabyは了の事に思えてならない。
最後に、この作品で描かれる「愛」について。
全話を通して強く印象に残る「愛」は、シレーヌの愛だ。
アモンを求める情動。人の姿で交わさられる愛欲。悪魔に変身した戦いの中で犯される屈辱的な交接。死の間際に提供される献身的な愛。
欲と情の両者に絡め取られアモンを熱望していたシレーヌに最後に示されるカヌイの愛を受け入れたのち、デビルマンを倒し損ないながらも、朝日を浴び、そそり立つ鋭く太い牙の上に恍惚の表情を浮かべ死姿を晒すシレーヌの姿は、確かに美しい。
悪魔である彼女の「愛」が一番の印象を残すのは皮肉な事だが、その姿をここまでエロティックに美しく描いた湯浅監督の凄みには唸らされる。