小室哲哉の引退は、文春のせいではなく、全ての日本人のせいである。

文春砲に直撃され、小室哲哉が引退する。それに対して、モノマネお笑いタレントのエハラマサヒロがツイートをし、反響を呼んでいると言う。

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小室哲哉にもエハラマサヒロにも1ミリも興味がないが、この騒動の根幹はずっと気持ち悪いと感じていた事なんじゃないかと思い、簡単な感想を書いておく。

 

◼️小室哲哉は特別か。

一人の天才を、ゴシップ週刊誌が部数稼ぎのスキャンダル記事で潰してしまうことへの不満が始まりだ。

だか小室哲哉ってそこまでの天才か?たかだか、薄っぺらいJポップスを量産した職業アーティストでしかない。

安室奈美恵の引退コンサートのシークレットゲストで感動の共演が予定されていたのにつぶれてしまったと言うが、それが何か社会に影響するのか?猿みたいな顔した小便くさいガキタレが歌ってきた事の締めくくりなんて、あってもなくてもこの世の中は良くも悪くもならない。

 

小室哲哉が引退する事で発生する諸々は、別にと一言ですむことだ。

仮に過去の楽曲が人の心に喜びを与えてきた他に換えがたい物だとしても、今回の引退で聞けなくなるわけではないし、曲そのものに本当の力があればこの先も残るものだ。

引退とは関係ない。

 

◼️不倫は悪か/文化か

 不倫に対する反応こそが、今回の騒動の肝だ。

不倫そのものは決して人に誇れる善行ではないが、全ての人格を否定されるような事でもない。

文春が報道した事実とは関係なく、不倫について良し悪しを判断できるのは家族など当事者だけだ。

それ以外の外野の意見は、どんな高尚なものでも他人の大きなお世話だし、ただの野次馬の戯言だ。もちろんこのブログも。

既婚者だろうが未婚者だろうが恋におちる事もあり、一夫一妻はあくまでも制度でしかない。

それを理解した上で倫理を守るどうかは個人の選択だ。

背徳的な行為だからこそ、盛り上がり人生を輝かせる事もある。人間には善悪とは別な欲求があり、心底に横たわる感情はドロドロしたものだからこそ人の世界は魅力に溢れている。

文化の中にはそうした人の有り様を描いたものも多く、その意味で不倫は間違いなく文化の一部だ。

これを単純に否定してしまうのは、無菌状態で育ち人の魅力を知る事のできない薄っぺらでつまらない「正しい」人だ。

 

◼️不倫を断罪する価値観の幼稚さ

今の日本では、不倫は絶対敵な悪行で社会的に断罪すべきものとされている。

他人の妻や旦那を寝取る行為が家族を苦しめる事は否定しないし、悲劇を生む事もその通りだ。が、それは家族の間の出来事で、それ以上でも以下でもない。不倫した男女のそれ以外の資質や才能を否定したり、無意味にするものではないし、関係者以外が「正義」の言葉で何事かや、人格まで否定できるものではない。当たり前の事だ。

この当たり前の事を踏まえず、脊髄反射で単純に、不倫=悪い事をした人間は全てを否定しどんな断罪をしても許される価値観、ワイドショー的な正義感が日本の当たり前になっている。

ベッキーを叩き、秋元アナを叩き、山尾議員を叩き、といつまでも飽きる事なく、安全な場所から、自分の小さな世界の価値観を守る幼稚な存在が今の日本人だ。

私はそんなに幼稚ではない、などと否定できる日本人はいない。不倫に限らず、喫煙、体罰、セクハラ、パワハラ、労働環境などなど、複雑で当事者以外は善悪を判断できないような事柄を、自分たちのわかるレベルでの理解だけで、考慮すらしない行為を「普通」の感覚という言葉でごまかし、安易に正義を振りかざす。

日々の生活の中でありふれて見慣れた行為だ。

だからこそ、文春は部数を伸ばし、ワイドショーは視聴率を維持し、飲み屋での井戸端会議は弾み、コメンテーターは活躍し、正義の主婦は我がもの顔で街を歩く。

父性的な社会を懐古し正当化するわけではないが、「優しく」「難しくなく」「普通の感覚が大切で」「正しく」「明るく」暮らす事が正しい母性社会ではこれが正解で、今の日本は間違いなく、温く優しく正しい世界だ。気持ち悪いが、この流れは誰にも止められない。

 

◼️「正しい」人の幼稚な正義の蔓延はとどまる事がない

こうした世界の中では、脊髄反射の単純な反応で、不倫をした人間は無条件で悪人とされる。小室哲哉だろうがベッキーだろうが誰だろうが関係ない。

どんなにきれい事で擁護しようが、この「正しく優しい」社会を許容し形成してきた全ての日本人は、誰の不倫も寛容に受け入れられない糞のようにつまらない価値観を肯定してきたのだ。

才能があるなしなどは関係はない。難しい事なんてわからない、ただ単旬に不倫「だから」悪いことなのだ。全人格悪い存在がするのが不倫なのだ、この国では。

さらに、気持ち悪いのは安室奈美恵と言う、「普通の人」にとっては大事な「アーティスト」の引退コンサートに出てまた感動を与えるはずだった特別な人まで、不倫したからと叩くのはおかしいなどと言う究極のダブルスタンダードの擁護まで飛び出してくる。

阿呆にもほどがある。自分勝手な都合よさには笑うしかない。

潔癖で人の暗部を排除し、正しく優しく健全な(笑)社会を作ってきた日本人らしい、適当な感覚だ。

 

結局、小室哲哉を引退にまで追いやったのは、文春ではない。

文春的なもの、ワイドショー的なものを楽しみながら、口先では正しく優しく健全なものだけをよしとしてきた日本人が、彼を追い詰め、逆に擁護する連中が同じ穴の貉として後ろからそれをバックアップしているのだ。

本当は、詐欺やら薬やらが続いた職業作曲家、過去の著作の権利はすでに投げ売りしている過ぎ去った栄光だけの脱け殻から、後ろについていたスポンサーが降りた事が、マスコミには言えない本当の理由だとしてもだ。

 

落語家や俳優では、不倫を報道されても、本来のフィールドでの本質的な価値を根拠に引退などせず、活躍し続けている人も多い。

結局はそういうことだ。

ただの気分で流行りものになったくらいの才能、しかも今では賞味期限のきれた才能は、この日本社会の「正しさ」の気分圧力、自分自身が作ってきた価値観には勝てなかっただけの話だ。