『哭声/コクソン』 映画 信じぬ者は救われぬ

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映画の興奮に満ちた映画だ。

ジャンルは関係ない。

ここで描かれる残虐なシーンや血みどろなカットの興奮はもちろんだが、核にある人の醜さとそれに対応したかのような物語の展開が、鑑賞中、鑑賞後も興奮を持続させる。

鑑賞した人たちが、語りたくなるのも良くわかる。

 

この映画の一番の魅力は、不気味な謎の日本人を演じた國村隼に尽きる。

彼がスクリーンに出てくるだけで空気が変わる。その上で白褌で、鹿のナマ肉を四つ足で喰らうなど、次々と強烈な役を演じきっている。

彼を観るだけでも充分に鑑賞の価値がある。

その上で、映画から感じ語りたくなるようなマジックに満ちた映画だ。

観て、感じて、語って欲しい。

 

 

韓国の山奥にある田舎町で起こった猟奇事件から幕が開き、住民と交流しない不可解な日本人と連続する事件の関係について主人公や住民たちが疑心暗鬼になって行く。

映画評論家の町山智浩によく似た主人公と周囲の人々が、疑心暗鬼に落ちていく過程が丁寧に描かれる。韓国、しかもど田舎の寂れた町にふらりと現れた得体不明の日本人という、それだけでも住民が騒つき悪意をぶつけるだろう存在が、愚かな小市民たちを静かに狂気に導いていく。監督の底意地の悪さが現れた設定だと思う。中国人か日本人を最初から考えていたという。狙い通りだ。

 

明確な説明をつけない突き放したエンディングが、心地よい理解や共感を生まないために、鑑賞後誰もが、映画の中で起こった出来事や登場人物の真意、真実を語りたくなる。

観た人ごとに解釈が異なり、それぞれが意味付けをしたくなる時点で監督の勝ちだ。

 

猟奇殺人の原因は、所々で描かれる毒性の高いきのこを使用した健康食品による精神と身体の変化と崩壊から起こった殺人だ。

國村隼も、白衣の女性も、祈祷師もその原因ではないことは、明確ではないが、きっちりと伝えられている。

何より映画冒頭で語られる聖書の一節が全てを説明している。

霊だと思っている人には、キリストですら人には見えず疑いを抱くのだ。

真相ではなく、自分が信じたいと思っている悪意、悪霊の存在が真相だと信じてしまう事の醜さがこの映画の投げかけるものだ。

真相だと信じる解釈を語る観客達の姿は、自ら信じるものに取り込まれた主人公達と同じものだ。

それこそ、監督がこの映画に仕掛けたものだ。

醜く愚かな人の姿をスクリーンの上だけでなく、観客も巻き込んで感じさせる。

底意地の悪い、映画ならではの面白さだ。

 

國村隼も、祈祷師も、白衣の女性も、さらに家族すら信じられなくなって酷い行為を行う主人公の悲劇は、自業自得だ。彼は最初から最後まで誰も信じ抜く事はなかった。ただ感情のみで犬を殺し、日本人を集団で襲い、仕事を放棄し、祈祷師の儀式をぶち壊し、白衣の女性に禁止された行為を行う。

救われる要素が一つもない彼に、感情移入したり共感する事は一切ない。一見主人公として最悪だが、映画の意図とはぴったりと一致している。

信じない、信じられない、思い込みだけで行動する人間の象徴そのものだ。

最後に彼に訪れる事は、そのまま人に訪れるものなのだろう。

 

こんなに愚かな人の姿を描く事ができる映画という娯楽は、なんて強烈なものだろう。

こんな凄みに溢れた作品を産み出せる韓国の環境を羨ましく思う。

恋だの青春だの一義的な安易な事しか金にできず、キラキラ映画に溢れた邦画の悲劇が悲しい。

 

【蛇足】

この映画を、キリスト教的な視点で解釈したり、韓国でのキリスト教のあり方から解釈している評をいくつか読んだが、どうにも気に入らない。

特に、國村隼はキリストで、祈祷師はユダだとか、登場人物それぞれをキリスト教の主要な人物にあてはめて解釈している内容には悲しくなった。

それがどうした?

韓国のキリスト教について語るなら統一教会を始めとする「韓国キリスト教」の歪みを語らない限り意味のない知ったかぶりの言説だ。

綺麗に解釈しているつもりだろうが、映画の面白さを一切深めていない。

町山智浩も時にそうなるが、いやそういう事が多いが、あれはこういう意味なんですよ、こんな暗喩なんですよと、「深い」教養から解釈や意味を語る事はあるが、その先=映画の面白さや観客に映画の喜びをを伝える事がない解釈はただの自慰行為以外の何物でもない。

俺って偉いでしょ、賢いでしょ、って顔つきが気に食わない。

その暗喩や解釈が、その映画の何を担っていて、だからこの映画はこういう面白さに溢れているんだって明確に語れない解釈は、百害あって一利もない。

昔から蓮見が大嫌いな理由は、それだ。映画批評で価値があると思えるものは少ない。

てめえの高い意識や教養での解釈が、自己満足以外の喜びを与えているか、心の底から考え直して欲しい。

個人的な好きだった嫌いだ、面白かった退屈だったって感想の方が読み応えがあるし、読んでいて意味を感じる。

 

この話は改めて別な記事として書きたいと思う。