『シェイプ・オブ・ウォーター』 映画 身体と心が満たされるセックスは、醜女だって美しくするのだ!
2018年アカデミー賞作品賞受賞作。
奇才デル・トロ渾身の、異形な二人のファンタジー・ラブ・ストーリー。
物語は、ありきたりなお伽噺だ。
人魚姫は一目惚れした王子に会うために、想いを伝える声を失った。
本作の主人公イライザはあらかじめ声を失っている。恋する対象である人魚は発する声を持たない。
それでも次第にお互いの想いが通じあっていく様子が、この映画では素敵に描かれる。
優しい気分になって、誉めたくなる、大切にしたくなるのは良く分かる。
しかし、私にとってこの映画は、優しいものではなく、セックスの満足こそが全てだと唄い上げた映画だ。
マイノリティな嗜好を否定せず、それぞれの性的快楽の追及こそが幸せだと静かに叫んでいる映画だ。
シェイプ・オブ・ウォーター = me = 愛の形を描いた、マイノリティを肯定する映画だ。
映画の中では、主要な登場人物のセックスとその満足度について、しっかりと描かれる。
敵役の男ストリックランドは、欲求不満の妻から強制的にベッドに誘われ、乗り気でないながらも、始めればマッチョな欲望をぶつけるだけのセックスをする。ノーマルな二人の性交はただの獣の交わりにしか見えず、心は互いに擦れ違ったままだ。
主人公の友人の画家は、ゲイとして欲望を開放したいと思う若者に気色悪いと言われ、セックスも心の交流も拒絶される。
主人公の同僚ゼルダは、結婚当初は絶倫の旦那に毎日満たされていたのに、最近ではまったく相手にされず、旦那の存在そのものが邪魔になっている。
この満たされないセックスの状態にある3人と性的な話と無縁なロシア人が、主人公を助け、彼女の充足した人生を実現していく。
イライザは、満たされる事のない毎日の中でオナニーを日課にしていた。セックスの代替行為で一人自分を満たす事で、自己完結していた。
彼女はモンスターと出会い、心の交流を重ね、やがてセックスを行う。
自己完結していた女性が、異形の異性により体の欲望を満たされるのだ。
パカッと開いて、ズドンと飛び出す性器の話をする時のイライザの嬉しそうで楽しそうな顔は、可愛らしい。
例え、異形=獣との性交について語っていたとしても。
部屋から溢れるほど溜まった水。
滴って周囲を濡らしまくる水。
一挙に開放されて飛び出していく水。
シンプルで力強いエロス、女性のエロスを直接的に描きながらも、色彩のマジックによる美しいシーンが続き、スクリーンから目が離せない。
身体も心も満たしてくれる相手を見つけ、手に入れた最高に幸せな女性が願うのは、その浮遊感溢れる快楽の永遠の持続だ。
社会から切り離され、男と女だけの世界になったとしても。
それは狂気でもあるが、狂喜でもあるのだ。
だからこそ、ラストシーンは美しく、同時に儚い。
デル・トロ監督は、怪魚人映画への愛と『美女と野獣』への不満からこの映画を創ったと言う。
野獣が美しくなるのではなく、野獣のまま愛しあうべきだと。
言葉にこそされていないが、野獣のまま愛しあうことにはセックスも含まれ、本人にとって幸せであれば獣姦ですら美しく正しい行いだとメッセージを発している。(獣姦肯定ではなく愛に正しい正しくはない。本人に充足を与えるのならばマイノリティな嗜好でも否定はできないって意味だ)
幻想的な色彩と、優しい登場人物、お伽噺の筋立てで、上手に隠してはあるけれど、このメッセージこそが、監督が偏愛している事柄の核だと私には感じられた。
過去の映画へのリスペクトや、レトロな空気、映画の快楽に溢れた画などから、老体のアカデミー会員を煙に巻き、見事受賞に至ったが、そこに込められた想いは、まっとうな人たちは明るい公の場所では認められない、しかし切実で強い「愛」の讃歌だ。
デル・トロ監督は、本当に凄い。
キリストの復活を象徴してるだの、これで怪獣映画もアカデミーが取れるようになっただの戯れ言はどうでも良い。
画家の部屋の壁面に北斎の富岳百景の浮世絵が隠されているように、美しく優しい怪獣映画の後ろに隠されているセックスの物語について、マイナーな性的嗜好も否定しない「純粋な」愛についてもっと語られるべきだ。
と私は思う。