『累 -かさね-』 映画 魅せられて見せ付ける、それが女優よ

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絶叫台詞と過剰な説明は、邦画の宿命として目をつぶっても余りある、役者が演じる事を演じるスリリングな映画だ。

 

舞台の魔力に魅せられた女優をテーマにした傑作映画『ブラック・スワン』に負けない、女優の美と狂気を描ききっている。

醜悪な顔へのコンプレックスから他者を演じる事で存在を肯定されると感じる女と、綺麗な顔を人に賞賛され崇められる事で存在を肯定されると感じる女が、舞台と言う狭く広い板の上での存在をかけて、お互いの存在を必要としながら憎しみを深めていくストーリーの展開も、怒涛のラストに向かっていくにつれ緊張感を増していく完璧な構成だ。

 

開幕早々の土屋太凰が演じる舞台女優の演技の微妙さと素顔の演技のステレオタイプぶりには苦笑するが、わかりやすい掴みで観客を安心させた意味は話が進むにつれ納得できる。キスによる顔の入れ替えを重ねるうちに、土屋太凰が演じる芳根京子の芝居、芳根京子が演じる土屋太凰に芝居があまりにも自然に展開され、スクリーンに映る土屋太凰の顔が一瞬芳根京子に、芳根京子の顔が一瞬土屋太凰に見えてくる。

二人の女優が、芝居だけで互いの顔を錯覚させるほどの演技の奇跡は、それだけで観る価値がある。

彼女たちの神がかった演技は、邦画の約束事を越え、女優の演技をスクリーンで観る事の悦びを改めて感じさせてくれる。

 

口紅の理屈がまるで説明されなくてもいいじゃないか。累の少女時代のいじめの理由がよく分からない醜さだっていいじゃないか。関ジャニの横山の演技が棒だっていいじゃないか。土屋太凰のダンスシーンが長いのだって許せる。と言うかこのダンスは、この後の展開上必要だな。

土屋太凰と芳根京子の演技を観られるだけで十分満足できる映画だから。

 

『かもめ』『サロメ』と演じる事をテーマにした舞台と、累=ニナの心情が共振していて観客も感情移入がしやすい。舞台でスポットライトを浴び賞賛される事の強烈な感覚を経験していない人間でもそこにある悦びを自然と理解できる。

 

美醜をめぐる女どうしの争いと、才能と造形で男を奪い合う愛情の物語が、ギラギラした純真で狂った欲望=世界を一人で背負い世界すべてから賞賛される瞬間を得る事のできる一握りの舞台女優のみが手に入れる恍惚への欲望へと最終的に収束していく。

 その瞬間を切り取ったラストシーンには鳥肌がたった。断ち切り方が完璧だ。

エンディングの歌は要らない。欲望が成就される瞬間の昂りを感じさせるその瞬間、プツリと暗転する事で、その先に待つ希望と破滅を感じさせる『累-かさね-』らしい終わり方だ。