『孤狼の血』 映画 男臭さ溢れる野蛮な映画 臭いのが良いんだよ
『仁義なき戦い』『県警対組織暴力』に強い影響を受けた柚月裕子作『孤狼の血』の映画化。
オープニングの東映のロゴは、今のCG版ではなく昭和の波濤だ。
その後のアバンタイトルも赤字縦書きの役者のテロップで懐かしさ感じさせる。
勢いある手書き文字でなく、綺麗なタイポグラフィなのが今時だ。そして、鑑賞後感じる微妙な違和感を、このディテールの違いが象徴していると感じた。
少し荒れ目の画調や色調も、深作ヤクザ映画を強く意識していて、時折使われる斜に構えた手持ちのカメラの再現まで、この映画の目指す世界は一本筋が通っているし、全てが本気で作れらた映画だと感じるのも間違いない。
この強い心意気と、再現された昭和、役者たちの文句のない演技を観るだけでも、十分に価値はある。スクリーンで広島弁をがなり合う粗暴な映画の、なんて魅力的なことか。
役所広司演じる大上が吠え、松坂桃李が強い目で熱く語るシーンなど、鑑賞中は暑苦しい男たちの姿に熱い血潮が胸に沸る。
しかし、鑑賞後感じるのは微妙な違和感だった。
第一は、肩で風きって映画館を後にできなかった事だ。
間抜けなようでいて、深作ヤクザ映画/東映ヤクザ映画を観終わった後、一番に重要な事は、登場する男の魅力に魅せられて登場人物の一人のような高揚した気持ちになれる事だ。
アウトローではあるけれど、一人の男として筋を通す、我慢に我慢を重ねた上で怒りを敵役に爆発させる、牙を抜かれて日々を生きざるをえない自分が、男としての義と野生を刺激され、あれは俺なんだと問答無用で感じさせてくれる強さこそが、ヤクザ映画の強さだ。
この映画では、主人公大上の存在は、粗野だが卑ではなく筋は通している魅力的な男であるのは間違いないのだが、正義の人としての側面を最後に強調しすぎ牙のある男ではなく、良い人になってしまっていた。
このあたり原作では、ディテールを積みかせね、良い人に振り切らず、信じる正義のためである事二代わりはないが、自分の信じる事だけに生きる狂気ギリギリの存在に描かれていて、強く共感できた。言葉を積み重ねる事のできる小説と映像で見せなければいけない映画との差といえばそれまでだが、近年邦画では描かれなかった魅力的な男であるだけに、非常に残念だ。
第二は、ヤクザに魅力がなかった事だ。
江口洋介が演じる一ノ瀬や、ピエール瀧、石橋蓮司、竹野内豊らは、強烈に個性的なヤクザを演じていて『アウトレージ』とは異なる現代東映ヤクザ映画として、すばらしい存在感を示してはいた。
繰り返すが暑苦しい漢たちを感じるだけでも十分に価値のある映画であるのは間違いない。
が同時に、ヤクザ映画である以上、特に昭和のヤクザであるのならば、男としての筋を通す存在が必要だった。ここも小説では一ノ瀬が担っている部分だが、映画では物語を完結させるために、大きな変更をしてしまっていた。
殴り込んじゃいけん。しかも子分に罪をなすりつけちゃいけん。
男であるべきだった。この部分だけは、映画のためとはいえ、どうしても納得できない。
大上がヤクザは駒だと割り切っていたとしても、任侠を守る親分だけでなくその意思を組む一ノ瀬は男である存在だから雑には扱っていなかった事が、男映画としての響くポイントのはずだ。そんな一ノ瀬は日岡はそれでも罠に嵌める、自分の信じるもののためには、との流れこそがより日岡の意思のありようを強く印象付ける事ができたのではないかと思う。
この数年邦画にはなかったヤクザ映画として注目を浴びるだけの価値のある、強く男臭い映画だ。
いくつか不満はあるものの、それを補ってあまりある映画であるのは間違いない。
キラキラ映画なんて観ている時間があるのなら、ぜひ劇場で鑑賞して欲しい。
その後ぜひ原作を読んで欲しい。大上や日岡、一ノ瀬の魅力がさらに増し、映画と小説の両方が一層好きになる。
薬局のバイト役の阿部純子が良い。
清純な女子の顔と「オメコ」魅力的に口にできる女の顔の二つを違和感なく自然に演じられる女優ってそうはいない。