俺も芥川賞直木賞について語る。
直木賞は特にどうと言うこともない。やっと京極夏彦受賞か。最期の可能性だっただけに、おめでたい。まあ受賞しようがしまいが、傑作小説『姑獲鳥の夏』以降の京極堂シリーズの小説としての面白さや、巷説の物語としての面白さは揺るぎないので、仮に落としていてもたいした問題じゃないが。もう一人の受賞者江國香織は、まだ一冊も読んだ事がないのでよく分からない。受賞作のタイトルはまあ、ベタなような気もするが、どちらにしろ内容次第だよな。
でだ、今回の何かと話題の芥川賞だ。最年少美少女ダブル受賞と言う事で、あちこちどころかかなりの場所でコメントばやりだし、綿矢に関してはビジュアルがどうのこうのと姦しい。
萠えじゃないって言うの。そんな特別にかわいいわけじゃないだろ。本気であそこまでかわいいって言ってるのは、よっぽど周りが駄目か?君の周囲はそんなに駄目なのか?それとも脳内恋人以外で久しぶりに芸能臭のしない普通のそれなりにかわいく見える女の子がモニタ越しにキャラ走っててて、嬉しいのか?どっちかと言うと”痛い”タイプだぞ。膝がどうこうなんて、痛い以外の何者でもないだろ。ハアハア書いてる諸君、痛いぞ。ついでに女子高生って言う言葉でしか消化できないおじさん逹、かなり痛いぞ。
どちらにしろ、どうでも良い。そんなにかわいくない。普通だ。以上。
それで本題。今回の受賞でかなり売れているらしい。綿矢りさ3万、金原ひとみ5万の増刷だと言う。金原の場合初刷が5千なので、この数字もうなずける。これはとても嬉しいことだ。章なんてしょせんは販促の一環。クオリティの高い作品を選び発表する事=販促活動以外の何者でもない。その販促活動に権威があるかどうかは、別の次元の問題だ。この受賞をきっかけに、彼女たちの本が売れて、手に触れる人が一人でも増えれば、小説読みとしてこんなに嬉しい事はない。良い小説に触れる機会が増え、読書の快楽を楽しむ人が増える事は嬉しい。
五月蠅いのは、書評をこれでもかと書き連ねる連中だ。自分だって読書感想文めいた駄文を書いてるじゃないかと言う事は棚上げして、いったい彼らは何者、いや何様なのかと言う事だ。『蹴りたい背中』で書かれている事を、地方都市に暮らす普通の少女の描写の分析をしたり、書評で作品の構造的な仕組みを解釈して褒めたりけなしたりする行為は、一体どういう事なんだ。
しょせん文学だろうがミステリ・SF・エンターテイメントだろうが、本を読むと言う行為においては同格だ。文学の高尚さもエンタメの猥雑さも、作品の魅力と言う意味においては同室のファクターだ。俺の嫌いなライトだってそうだ。
そもそも文学・小説を評するってのは、何のための行為だと言うのだ。俺だって大学では、師について文学論議をかなり熱くしたよ。『闇の奧』だって『怒りの葡萄』だってバトルしながら語りあったものさ。
でもそういう文学を語る、評する行為ってのは、しょせん読む事に勝てるものじゃない。バックボーンや情報量、人生の経験、年齢、性別など個的なファクターと、生活している時代という全的なファクターが絡み合って存在する個人が、ある特定の瞬間に本を読むと言う行為以外に、本の存在を定義するものなんてありはしない。例え阿部の『シンセミア』が現代日本文学の傑作だと論じる事ができたとしても、つまらない物はつまらないと感じる人は感じるのだ。それを批判する事は誰もできない。俺には重要だけど、君には重要じゃないんだね。それで終わりだ。嫌みじゃない。今の時代を生きているのなら、この小説の問題提起をどうして受け取る事ができないのか?それでも真剣に生きていると言えるのか?などと口するのは、時代遅れの左翼文化人敗北者の意味の無い言葉でしかない。
長くなってしまったので、いきなりの結論だけど(ここに続く細かな事ははまた時間を見つけて書くつもり)、『蹴りたい背中』がどこまで今届くかと言う事だ。届く言葉、描写、心があるかと言う事だ。俺にはない。金原の『蛇にピアス』の方がよっぽど届くものがある。”フラット”に書かれた改造へのベクトル。そこにいる登場人物に触れる事ができただけで、この本を読んだ悦びがある。
今日は書いてる内容が思いの外長くなってしまって最後までぐたぐただけど、まあいいでしょ