自らの名前を並べ記すなどおこがましいと心底感じるほど著名な論者や批評家が発言する話題の尻馬に乗って自分の拙く卑小な思いを逆説的にももちろん正面切ってでもなくとつとつと語る事で何かしらの貢献なり参加するなりの意図があるわけでもなく、ましてや凡庸な存在にも時に真に触れる思考なり考えがあるなどと鬱屈した自己満足的な言説をそこに潜り込ます意図などみじんもないし、批判めいた作文を書き記す事で自己の存在を知らしめようなどと言う愚かで貧しい自己顕示欲など持ち合わせてはいないのだが、そこにある議論話題の凡庸さと進歩のなさにあきれかえると共に、誰もが決着なり結論なりの落とし前をつけぬまま放ってある課題なりパラダイムなり何とでも呼べば良いのだがその課題を無根拠に放置したまま文学を語るましてや現代を考察し日本の文学ライトノベルなりエンターテイメントなりの一昔前ならばサブカルチャーとでも呼ばれであろう文学について語る事に対して、大きくもないが深くもないかといってそのまま放置しても良いとは認める事ができない程度の違和感を感じ、同時にそれが自分が80年代以降ずっと立つある種の不安定さと根を同じくするものであり、彼らの議論のおかげで一条と呼ぶにはいささか光量が足りないのだが、それでも目鼻立ちの輪郭を幽かに想起出来る程の光を感じる事ができたがために、この日記ともなんとも認識しがたいあえて言うならば書き殴りに近い雑文のページに、一言なりとも記すべき事があるだろうと思うに至りいくつかの事を記したいと思う。
などと元国立大学の学長で、ニューアカのヒーローとでも位置づけられた事もあった某氏の文章をまねて書いてみたのだが、最後まで読んでくれた人はいるだろうか?

巡回していページで見かけ、ここ数日気になり、俺なりに考えていた話題についての事なのだけれど、多くを語る必要などない若手のスター論客東浩紀http://www.hirokiazuma.com/blog/と「群像」などで活躍されている仲俣暁生http://d.hatena.ne.jp/solar/20040208が語っている「超越性」について少しだけ語りたい。
詳細を省いてしまうが、80年代からこっち蓮實重彦柄谷行人らの著作、また浅田彰と言う時代のスターのベストセラー『逃亡論』などでも扱われている、自己と言う欺瞞、自己を成立させうる根拠としての物語の堅牢さ、その物語を表裏共に支える文学という装置、システムから逃げる事の困難さ不可能性などの指摘・問題はすでに過去の物として扱われてしまうものになったのだろうか?
俺には、どうしても今の論議は欺瞞にしか、言葉を穩やかに言えばかなり後退した位置からの安全な論議にしか思えない。高尚な議論や考察を持たずとも、あの時代に指摘されたこうした点は、なんら解決も脱出の道も示されていないし、それらに対抗しうる物が出てきているわけでもない。
バブル後の自分・自己探しの意志や、引きこもりやら若者の犯罪増加や逆に肥大した自己の誇示などの社会やシステムなりへの安易な拒絶や無根拠な否定や脱落、小説におけるオタクラブなライトノベルズなどの商品や少年系や世界系の出現、などなどの全てが、こうした点を隠蔽ないしは無視した点からの愚かでどうしようもなく安易な状況から発生したものとしか言えないじゃないか。
「超越性」でも「大きな物語」でも呼び名などは何でもかまわない。俺らが意識を持って生きているこの現代の世俗の世界では、考えていると思っている自分すらも近代が発明した自我・自己に基づく物でしかなく、その自我・自己が構成する社会・世俗はあるべくしてあったものではなく、発明品の自我・自己を成立させるものとしての物語を必要とせざるをえない。家父長制だろうが、天皇制だろうが、流行のトラウマだろうが、地球人としての崇高な理念だろうが、全ては自己を反映させる手段・システムとしての物語であり、そうであったがために有効な役割を果たしたり果たしている。物語=装置の堅牢さはそうした物語を下り拒絶した人物までも吸収する新たな物語を用意している事だ。全ての物語を拒否して生きると言うことは、自分という意味を捨てる事でしか実現できず、しかも用意周到な事にそうした人物を他者が認識し語る物語すらすでに存在しているのだ。あたかも物語が先行してあるかのように書いたが、そうではない。人が他者、もっと言えば究極の他者である自己に対して存在を意識する時点で、すでに対象を認識すると言う物語が発生している。人が人として脳・言葉を使って生きると言う事ですでに物語=装置に組み込まれてしまうのだ。
暴力的なまとめだが、この不自由さを認識した所からでは、どうしたら良いのかと考えようと言うのが、ニューアカの意義だったのではないか?
徹底した過剰な物語の模倣を通し、一瞬綻びを見せる堅牢な物語=装置の存在を批評なり、意識なりしようと言うスタンス。方法論ではなく根拠を突き詰める事で、装置の欺瞞を顕わにしようと言う追求。スキゾキッズとしてスピードと連続した行為、遊技としての軽妙さで物語りから逃げようというアジテーション
世俗について言えば天皇制やら、家父長制と言う旧来の物語が時代とあわず人々を不幸な状態においているのであれば、共産体制と言う新しい物語の下に生きようだとか、グローバルな競争状態において経済の発展とともに人・社会を幸福な競争状態におこうという物語など、今に一番則した物語を新たに構築しよう、しなければならないという考えになる。後はそこで提示、選択される物語が自分にとってどうなのかと言う事だけが問題だと言うことだ。拒絶する事も、その物語を拒絶した存在の物語として陰から堅牢な装置を指示する事にしかならない。

確かに超越的なものは必要です。しかし僕はそれは決して伝統や国家にも(形而上学)、ニヒリズムにも(否定神学)求めない。これは『存在論的、郵便的』以来の一貫したテーマです。
http://www.hirokiazuma.com/blog/

といくら語ろうが、それは気分を示している事でしかない。物語がよって立つ基盤や思想の質が問題ではない。それはこの物語は好きだけど、こっちの物語は嫌いだと自分の嗜好を述べているにすぎない。「下りる」と言う行為はしょせん物語の補足・補強にしかなってないし、物語の批判や批評などにはけっしてなるものじゃない。だから自分の所属する小さな物語に逃げ込みニヒルを気取って見せたり、斜にかまえて社会を拒絶したりするのが格好良いと思っている佐藤友哉たんは気色悪いのだ。物語を拒否しようとスピードと力で走る舞城王太郎はもっといけなのだ。

当時この不自由さや堅牢性を考えるにつけ、ではどうしたら良いのか?そもそも自由とは何んなのか?と言う問いが空しく、虚無感や無力感に堕ちていくしかなかった。その反動としてのマハラジャやトゥーリアだったりしたわけだ、はは。
元に戻せば、話を文学に限定すれば彼らが示した、文学を読む事そのものが装置に貢献するものであり、そこで拒絶しようが納得しようが、言葉を使って存在する以上はどうしても物語・装置からは逃げる事ができないと言う、事だった。

ごく単純化して言うと、ぼくは小説を書いたり読んだりすることの喜びは、超越性から抜け出ることによって得られる自由の感覚にある、と考えている。そして、たかだか紙に刷られた文字でしかないものが、なぜ、ある種の「自由」の感覚を呼び起こすのか、ということの解明は、超越性という概念を持ち出さなくても可能だし、それができなかったら文芸評論なんてやる意味がないとさえ考えている。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20040208

認識があまりに甘すぎだ、と思う。ここで感じる「自由」こそが「不自由」な別の物語へ組み込まれた快感でしかない。好意的にとれば、一時でも現世なり世俗を忘れ、高尚めいた議論の根拠を読みとる事ができそれらを言葉にする事ができる自分の可能を悦んでいるとしか言えない。小難しい顔した小説で自分を発見する事ができたでも、ライトノベルズ読んで萠えたでも、エロ小説ですっきりしたでも、全てが等価だ。

さて長くなったので、いきなりのまとめにはいる。
政治や時代や根拠や思想など関係なく、またレベルなど超越して超越的な物語はどうしても存在し、それなくして小説は成立しない。そしてその自覚に立って結局、小説なり文学を読み愉しむと言うことは、不自由な装置・物語を意識しながらも、そこにある不自由さなり堅牢さなりを壊すかもしれないという幽かな可能性を愉しむ、もしくはまるで逆に物語に属している自分を発見したり、所属している安心感を得ると言うことだと思う。村上龍の『コインロッカーベイビーズ』が爽快なのは、小説内のシステムを崩壊させようと言う意志が自分のレベルでの物語=装置=システムへの意志にシンクロするような気がするからだし、阿部の『シンセミア』が気持ち悪いのは堅牢なシステムのなかで結局はぐだぐだと人々が生きているからだ。
俺が本なり映画なりに少しでも多く触れていたと思うのは、いろんなレベルでのこの可能性なり意志を共有したいと思うからだ。できるならその意志を表す存在にもなりたいと思う。



自分の事はどうであれ、気分が良かろうが悪かろうが人とは超越性を必要とする存在である事の先や、不自由で堅牢な下で生きている認識の先の事を考えるのは、俺の仕事でも使命でもない。そんなに頭良くないし、今の自分の職業はこの物語に貢献しカスタマーからクライアントへ利益をもたらす事なのだから、逆に物語はあってくれた方が楽なのだ。できれば周囲は無自覚でいてくれた方がありがたいくらいだ。言っておくけど、反省のためにこの長文を書いたわけじゃないから。

とにかくだ、有能で有名で賢い皆さんは、もっと最前線で闘ってください。期待してますって事だ。