『まだ遠い光 家族狩り5』 天童荒太

五ヶ月続いた『家族狩り』文庫書き直しも終了。単行本とはまるで違う物語になった。サイコホラー風のテイストは薄くなり、かろうじてミステリーではあるけれど、ここではミステリーである事が目的でもなくなっている。
作者の天童の言葉は、五冊を通していつでも真摯だ。安易な答えを拒否して、悩み、考え、それぞれの立場から何かを掴もうとしている。答えはだせないと確信し知っていながらも問題から逃げない彼の姿勢、言葉は、俺の胸に静かに届く。
ミステリーとしてのしかけや、構成が弱いとか、意外性のない展開だとか言う事はこの作品に対してはなんの批評にもなってない。完成度の高いミステリーは、別の作家にまかせておけば良い。
『家族狩り』や『永遠の仔』の時の天童の言葉は重苦しいほどの存在感だった。当時はまだあまり人から注目されていなかった家庭での暴力、子供への暴力、DV、などから目をそらさずにしっかりと自分の言葉で紡ぐ物語から、読者である俺も目を逸らす事ができなかった。彼が真摯に考え悩み傷ついていく様子に、同時に俺の中の何かも傷つき一緒に悩んでいると思わされた。
三十を超え今の日本に生きていると、今回の文庫版の中にある言葉は、当時にくらべて存在が弱くなっているとも感じられた。もちろん天童の真摯な姿勢や言葉の重さには、変わりはないけれど。
十年近く時が経ち、ニュースにも周囲にも子供や家族、家庭を巡る暴力が満ちあふれている。増えた訳ではなく、今まで表に出てくる事のなかった事が目につくようになってきただけだろうけど。俺達の回りには、世界的な大きな問題とは別に、小さいけれど大切で深い問題が沢山存在している。多くの人に問題が意識される事は大切だろうけど、このインフレ感はどうしたら良いのだろう。本当の弱者がさらに遠いものになってしまっている気がしてしかたがない。
俺が子供を作ろうとどうしても思えないのは、自分が親としてしっかりと子供に向き合う事ができるかどうか自信がないからだ。一人の人間として自分がしっかりと地に足をつけているかどうかも自信がないのに、その上子供人生を引き受ける事ができるかなんて応えられない。俺と子供。子供と社会。家庭と社会。どの関係においても何かを、希望の光を示してあげる事ができると微かなりとも自覚する事ができた時に、自分に繋がる希望を手に入れたいと思う。と言ってる間に、先に独身になってしまったけれど・・・。
物語の最後に天童は、小さいながらも明日へ繋がる希望の光を示し、彼等の話を終わらせた。それでも社会には終わりがない。答えや希望を見つける事ができなくても、明日はやってきてしまう。話の終わりに希望を記した天童は、本当は絶望しきっているのではないかと感じる。徹底的に絶望をしているからこそ、希望を信じようとしている。だからこそ俺は彼の作品を愛するんだな。どうしようもない事をしっかりと知った上で、安易な答えを拒否して、それでも明日を信じようとするしなやかな強さは、ともに歩む同時代の人として信じるに値するものだから。
混乱してるな。
俺は裕福ではなかったけれど、愛情と思いやりに満ちた家族に育てられた。本当に感謝している。これが偶然の幸福だと言う事も知っている。それでも自分が満たされて愛されて育った事に感謝しよう。その思いを誰かに伝え、ともに歩んで行きたいと思う。