『滝山コミューン1974』 原武史

今につながる多くの社会的なことは、小学校ですでに触れていた。それは多くの人が共感してくれるだろう。無能で愚かながら強固な社会の中で、様々なレベルの複数の人間と同時に生活して、自分を晒すことや、隠すこと。集団になった時の人の愚かさ、善意と言う名の押し付けの恐怖。愚集こそがメジャーになり、真実を求め行動するものは、結局外れ者になるしかなく、バランスを鳥渡り歩くには愚かを装いながら、全知力を総動員してクレバーに行動しなければならなかった事など。特に、一人ひとりは賢く善い心や倫理を持つ人たちが、集団となった時、大義名分を与えられた時に示す愚かさと強欲で権力的である姿は、今この瞬間にも通じる大切な真実だ。
俺は高校まで愛知県で育ち、一部で有名な管理教育が大きな力を持っていた60~70年代に小学、中学と過ごしてきた。
この作品の中で扱われる、1974年には7歳=小学2年正だった。6年生だった著者よりも少しだけ遅れた年代だが、地方都市である分だけ高度成長期の団地などの均質化の流れは一足遅く、ほぼ同じような時代状況にあったのだと思う。先に書いた管理教育と日教組の思想的対立もあり、完全には滝山コミューンのようなコミューンは強い力を持たなかったが、それでも共産主義的な集団生活、個の概念の上に設定される集団への権力の集中と、選抜されたエリートこそが集団を導くと言う政治的優先思想はそこかしこに見られ、息苦しい学校生活の中で、自分を殺さずに闘って行くにはどうしたら良いかをずっと考えていた。
この本に書かれた状況を知ることで、あの時、見えないところで何があったかが良く理解できた。
愚かだと笑う事は今なら可能だが、過去に遡る現代の視点で無批判に笑う愚かさはこうした状況を改善することは決してないだろう。理想の現実化を目指す教師達は、その時点で純真に理想を目指していたのだろうし、革新こそが新しい何かを生んでくれると学生も社会人も知的である連中は信じていた。今だって同様だし、シニカルに声高に熱さや理想を語らない、語れないだけ後退して見苦しいとも言える。教条的に教訓を読み取る=意味づけするのではなく、そこにあった姿を冷静に理解し、理想の実現が持つ権力志向と排外的な構造を今に反省する事しか先に続く道は無い。
小学生の時、こうした教師に心酔するもしくは、気に入られようと擦り寄って行く子供がいた。今は何をしているのだろう。目先のベネフィットと評価と金銭だけに盲従し、自らの立ち位置こそが正しいと声を大きく、偉そうにしてる主流派こそが、こうした連中なんだろうと思う。そして自分はそうした連中と対立していたと、自分は特別だったと思っている、今も思っている連中は、実は裏表で陰からそうした制度を強く補強している事に気づいていない。彼らがいるからこそ、実はこうした制度は存在できるのだ。ちくしょー。俺たちはどちらにしろ愚かだ。戦略的に行き抜く。その細い道を信じ、探し続けるしか無いのだが、その道を見つけるのは非常に難しくて、辛いことよ。