「雷の波濤 満州国演義七」 読書メーター

雷の波濤 満州国演義七 (新潮文庫)

雷の波濤 満州国演義七 (新潮文庫)

 

ナチス・ドイツの電撃的進行、満ソ緊張と泥沼化が続く支那事変。皇軍南進から太平洋戦争勃発。全ての国に絶対の正義はなく、国や個人の思惑、人種への偏見や利権が渦巻いているだけだ。誰一人この戦争の責任を逃れる事はできない。施政者を弱腰と批判し、感情的にさらにと望んだ一般の市民もだ。軍、政府官僚の責任を回避し有耶無耶にする体質、己を恥じないトップと大衆、全ての登場人物たちへの著者の視線は冷酷だ。告発もしなければ赦しもしない。救いがないのは、今の日本が何も変わっていない事だ。絶望を感じながらも目を離す事ができない。

「ルパン三世 カリオストロの城 4DX版」 この完璧な映画を超える作品を、俺は未だ知らない

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38年ぶりにスクリーンで鑑賞。

あらすじは、要らないよね。

 

アバンタイトルのカジノ襲撃から、オープニングを経て、クラリス奪回までの流れの完璧な事!!緩急メリハリの効いた構成、静寂と騒音のカット割の完璧さ!ワクワクしてしんみりして手に汗握るこの展開に約10分、テンポ、台詞、動き、メカへの細かい拘り、キャラの動きと表情の作画、何よりもスクリーンに展開される映画としてのドラマ、これを傑作と言わずして何を傑作と言えば良いのか。

 

懐かしさと完璧さに、劇場ではこの時点でボロ泣き。宮崎駿はやっぱり天才だよ。大塚康生とのコンビが最高だよ。鈴木ファッキン敏夫なんて邪魔なだけだよ。

宮さんにシナリオから作監まですべてを預けちゃいけないよ。

などと、老害な感想でアタマが一杯になる。

 

当時、アニメージュ別冊のロマンアルバム買って、コンテの一枚いちまい、採録シナリオの台詞の一つひとつ、設定集の細部の書き込みを何度もなんども読み込み、台詞とSEとBGMが収録された音声だけのLP買って擦り切れるほど聞いたのを思い出す。

 

あーもう暫くは映画は要らない。

 

湖から出現したローマの遺跡をお姫様抱っこで歩き、手を繋いで登った丘の上でインターポールの落下傘部隊を美しい風景として眺め、抱きしめたい気持を痩せ我慢の塊として我慢し、オデコにだけちょこんとキスをして、明るく手を振って去っていくルパン。

健気に泥棒を覚えますとつよく語り共に歩みたい思いを精一杯口にして、初めてのキスを素直に捧げようと目を閉じるクラリス

去って行くルパンを追い、世界で一番ロマンに溢れる台詞を口にして、敬礼と共にウインクをして去っていく銭形。

牛詰めのトラックの荷台からお姫様に手を振りながら去っていく埼玉県警の警官たち。

思い出し言葉にしているだけで、改めて涙が出てくる完璧なメロドラマ、男の浪漫満載のエンディング。

完璧だ。映画館で初めて観た瞬間、映画ってなんて素晴らしく心を動かすものなんだって震えたあの瞬間が蘇る。

 

この映画を経て、数十年(!!)が経ってしまったいま、引用もリスペクトもパロディも剽窃もさんざんされ手垢がついてしまったが、それでもなおオリジナルのもつ魅力は1ミリも色褪せていない。

12歳で受けた衝撃と感動は、今も変わらずで、映画を観る悦びを改めて思い出させてくれた。

たぶん死ぬまでこの作品を超える映画は出てこないんだろうな。

 

追記:今回の4DX上映で、唯一要らなかったのは椅子の動きとエアーの噴出だった。てことは4DXの意味がなかったって事になるかね。だって誰目線で動いてるんだからさっぱりわかんないんだもん。スクリーンに出てる何かに合わせて揺れたって、感情移入の邪魔になるだけだよ。

ルパンの行動や心情に合わせて動くんであれば、また印象は変わってくるのに…

 

おまけ:

この映画観るたびに食べたくなるミートボールスパゲッティ。

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俺の映画飯No.1。

って事で作ってみた。

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満足、満腹。

「横浜SF」 読書メーター

 

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

 

 延々と工事が続く横浜駅から、無限増殖する姿が完成形だと言うアイデアを得て、本州が増殖する横浜駅に侵食されている世界を構築して一つの作品にまで完成させたことが、何よりも凄い。世界構築系のSFとしても世界が破綻することなく物語が展開していくのも、読んでいて心地よく世界を楽しめる。「アド・バード」ほどの荒唐無稽さや壮大さは無いが、逆に駅、エキナカ、自動改札などと限定された世界観の中でのガジェットに愛嬌と妙なリアルを感じる。外伝はこの世界の中で、どれだけこの作品とは違うぶっ飛んだ設定になっているのか楽しみだ。

「大地の牙 満州国演義六」 読書メーター

 

大地の牙 満州国演義六 (新潮文庫)

大地の牙 満州国演義六 (新潮文庫)

 

シリーズ全体の主役、歴史が大きくうねり、敷島四兄弟がそれぞれ変節していく巻。圧倒的な流れに対して、己の無力感に若い女との性愛に溺れ、無聊を気取るも利権者の都合よく使われるだけに成り下がり、は永田憲兵隊尉官でありながら軍の限界を感じ完遂できなかった復讐に虚無感を覚え足元が揺らぎ始め、ただただ無気力に現状を受け入れるだけ、末っ子の四郎以外は物語の始まりから随分遠くに来てしまった。彼らと共に物語を歩んでいて、段々とつらくなって行く。欧州が対戦に突入し、アメリカが参戦してくるこの先、どんな虚無が待っているのか。

「ザ・コンサルタント」 なぜ君は、そんなに面倒臭い生活を選ぶんだい

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あらすじ:田舎町でしがない会計士をしている高機能自閉症の主人公クリフの、もう一つの顔は、マフィヤや裏の組織の会計を引き受け100%の命中率を誇る凄腕の殺し屋だった。そんな彼のもとにロボティクス大企業から財務調査依頼が舞い込んだ。

 

ベン・アフレックが良い。自閉症を抱えながら社会と折り合いをつけ、プロとして仕事をしている主人公の、感情のにじみ出ない目が素晴らしい。感情移入や人の気持ちを理解できないながらも、田舎町の老夫婦への生真面目な思いやり。冷静でありながら脅迫神経症的な細部への拘り、小さな事にいつまでも固執してしまう心情、表には強く表せないが肉親や友人への深い愛情、複雑な多様性を持つ主人公を、目の演技やちょっとして呼吸で演じきるベン・アフレックを観ているだけで、良い映画を観たなと満足できる。

 

高機能精神障害と言う難しいテーマを、嫌味にもならず、偽善的にもならず、主人公のありようの要にし、観客に共感を抱かせる造形とストーリーは、製作者の本気の姿勢が伝わって来る。ブロックバスターにするのなら、もっと単純なアンチ・ヒーローの設定で十分なのだから。ヒロインの愛の力で自閉症を乗り越えないのも好感を覚える。そんな安易な展開はいらない。

 

自閉症である事による、家庭の崩壊、父のスパルタな教育、過酷な人生を過ごしたからこその静かな凄み、小さな事にいつまでも固執する生き方、彼が人生をかけて拘っている小さいな事、彼が会計士と殺し屋の二足の草鞋を続ける理由…全てが主人公の高機能自閉症と言う設定に繋がっている。

 

説明の少ないまま、複数の疑問や謎をなげかけながら映画は始まる。今までに観た事のない複雑な多様性を持った数字と殺人の天才の行動を通していつのまにか映画の世界に引き込まれ、最後には全ての謎がパズルのようにピタリと収まっていく。この構成を観ているだけでも十分に気持ち良い。あまりに全てが決まりすぎて、やりすぎじゃないかと思うくらいだ。まさか相手がたのボスが奴だったなんて!て驚きも楽しかった。

 

ラストシーン、最後まで謎のままだったキャクターの正体が誰だかわかった瞬間、少年だったあの瞬間、彼の心に触れた出来事と感情が彼の全てだったのだと理解し、十分に魅力を感じていた主人公クリフの事がさらに好きになる。ヒロインのデイナを守ろうとした理由、彼女に絵をプレゼントした心情が改めて心に響く。

 

派手なアクションもカーチェイスも、キスシーンすらない。だからこそ、この映画はアクション映画でありながら、静かに心に染み込む。他に類をみない魅力的な主人公と出会えた事を嬉しく感じる。

 

「SPY/スパイ」 おばさん、世界を股にかける。

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有能なスパイのオペレータとしてCIAで内勤していたおばちゃんが、パートナーの復讐のために現場に出て活躍するスパイコメディ。

 

劇場で見逃したの失敗した!!と鑑賞中思ってたら、DVDスルー扱いだった。

何やってんだ、日本の配給会社は?!

(日本ではほぼ)無名なおばさんが主役の映画はヒットしないと、思い込んでるんだろうな。映画の目利きができない昨今の映画会社らしい間抜けさだ。

誰が主役だろうが、映画としての質が高ければ、どんな地味な話でも、誰が主役でも、しっかりと公開館さえ確保すれば、今なら作品なりの規模でヒットするって事が映画会社の人間にだけは、理解できてない。まあ、それはさておき、DVDスルーで、普通の人たちに存在が知られていないのが残念な良くできたコメディ映画だ。

 

アバンタイトルジュード・ロウのいかにも007風の登場から始まって、自然にオペレータの役割やこの映画のスパイの世界観を観客にスムーズに理解させる展開にまずは関心した。

そのまま往年の007テイストのオープニングで、この監督や製作陣は”わかっている”のが伝わってきた。この感覚は間違っていなくて、最後までスパイコメディとしてワクワク、ニヤニヤ、ゲラゲラと楽しめた。

 

何よりも主役のスーザンの造形が素晴らしい。40過ぎてデブでモテなくて自己卑下がひどくて下品で短期で性格も決して良くなく身の程知らずのイケメン好きで強い相手には隠し笑で同調するような小心なくせに口が悪い。職場での評価や価値が低くて、割り当てられるカバーは、クリスマスおばさんやピンクおばさんなど典型的なアメリカの普通のおばさんばっかりで冴えない。それなのに銃の腕は最高で格闘技術も高い、何よりも諦めないガッツは誰にも負けない。

こんな複雑で強烈なキャラクターを、観客に憎まれず逆に愛らしいと思わせてしまう設定と演技が、この映画の肝だ。

こんなおばちゃんが、最初から最後まで活躍し、スパイ映画としてのスリルやアクションで手に汗を握らせながら、しっかりと笑わせてくれる。

スーザンが、おばさんパーマにダサい服装ながらパリで大活躍した後で、ローマへの任務のために、保険販売の優秀者のご褒美としてローマに来たおばさんと言うカバー変更の指示を受けたシーン。小道具を開けた中に見えた猫の顔が大きくプリントされたピンクのシャツが見えたカット。その全身ピンクのスーツに猫顔プリントシャツを着てローマに降りてきたカット。この流れのセンスの良さとバカバカしさには爆笑した。

ジェイソン・ステイサムを、最後まで狂言回しにしか使っていないのも贅沢な遊び心だ。俺の趣味としては、最後の最後のカットは不必要だったけど。

 

スパイコメディを観ていてこんなに笑ったのは、「オースティンパワーズ」を観て以来だ。スパイ映画の中にもコメディシーンは彩りで取り入れられるが、この映画は徹頭徹尾コメディ映画でありながらスパイ映画でもあろうとした姿勢がすごい。

深く何かを考えたり、心震えるような何かに触れる映画じゃないけど、これぞ娯楽映画、観客を楽しませるために徹底して制作された映画だ。

こういう楽しい映画を観ていると、それだけで幸せな気持ちなれる。

 

「黄金のアデーレ」 チャーミングなお婆ちゃんに恋してしまう?

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今年に入ってなぜだかナチス関連の映画が続いた。「帰ってきたヒットラー」「ミケランジェロ・プロジェクト」でこの「黄金のアデーレ」だ。

読んでる本も船戸与一の『満州国演義シリーズ』でファシズム関連の作品が重なっている。別に意図したわけではなく、たまたまだけれど、こう重なると愚民愚集と独裁について思いを馳せざるを得ない。

政治信条について声高にアジるつもりはないし、意味がないのもわかってるので、映画や本の感想を通して語る事になると思う。

 

あらすじ:第二次世界大戦後期、ナチスのオーストリア侵攻の際に略奪されたユダヤ資産家が保有していたクリフトの絵画「黄金のアデーレ」の所有権を持つ老齢の女性が、オーストリア政府に対して法定で所有権を争う。

絵画の帰還については史実どおりだから、法定での決着ではなく、それをめぐる登場人物たちの言動や心情が、この映画の描くポイントだ。

 

名画のモデルが、戦中まで生きていた事、歴史のひとつだと思っていた絵画が創作の関係者がまだ存命しているほど現代に創作されたものである事に驚いた。ピカソゴーギャンもダリもそうだから、考えてみたら当たり前の事だけど、クリフトの耽美な絵画が現実に地続きなものだと言う事をすっかり忘れていた。

その絵のモデルアデーレの姪である主人公の老婆が、アデーレの思い出、意思、一族の歴史と誇りを守るために、オーストリア政府を相手に挑む姿に心動かされた。

 

主人公の造形が素晴らしい。強い意志とチャーミングな愛嬌、知的な態度と感情的な言動、伝統を大切にしながら現実とも折り合う生き方。自身にとっての誇りを守りながら生きてきた女性の歳を重ねた姿として、多様な側面が様々なシーンで描かれ、彼女の信念や芯がしなやかな強さとして伝わってくる。映画を通して、チャーミングな彼女に恋をしていた。

後半のあるシーンで、いままできっちりとセットしていたテーブルセットを揃えることなく、空の皿を前にして泣き崩れるシーンに、強い共感を抱くのは、そうした彼女の有り様の先にずっと殻に閉じ込めていた弱い一人の女性の姿、戦中家族に守られていた頃の姿を感じる事ができるからだ。

主人公を演じたヘレン・ミレンの演技を観ているだけで充分に楽しめる映画だった。

 

作中、戦中のオーストリアの様子が度々描かれる。絵画など美術品の略奪、ユダヤ人への弾圧など、一般的に認識されているナチスの暴虐な行為だ。しかしこの映画はそれとあわせオーストリアの市井の市民がナチスを歓迎している姿も描いている。

ウィーン侵攻の際の熱狂的な歓迎式典、ユダヤ人の告発を進んで行う姿など、決して恐怖政治的で無理矢理にナチスに従ったわけではない様子がきっちりと描かれる。

戦勝国歴史観や倫理観が正当な歴史だとよく言われる通り、今の世の中から見ればヒトラーナチスは絶対的な悪だ。敗戦国も自分たちの過ちを「悪者」に押し付けることで責任を回避し、素知らぬ顔で今を過ごしている。

この映画の面白さの一つは、こうした在り方の象徴として「黄金のアデーレ」の所有権を争わせている事だ。

 

真の所有者の存在を認め返還すれば、この絵を略奪したナチスの行いを受け入れ彼らを支援し認めていた過去が顕になる。だから主人公たちの主張は間違ったものであり、「黄金のアデーレ」はナチスの略奪の結果ではなく、持ち主の意思によりオーストリアに寄贈されたのだとする主張を、法定ではなく多くの市民が聴講すら委員会で覆す物語の結末は、当時のファシズムに対して積極的に歓迎し受け入れ同調していたことを認める事にもなる。

 

ファシズム=完全なる悪、ではないし、もちろんナチスの行いが善行だったわけでもない。しかし、当時の悲劇はナチスだけが起こしたことではない。彼らを選び育てたのは一人のひとりの市民で、その状況を作ったのは第一次世界大戦戦勝国だ。誰一人悪行の責任から逃れる事はできない。

分かり易い悪者に全ての罪を被せ、被害者の顔つきで過ごしてきた戦後を、物語の裏側で静かに告発していく。

名女優の演技に魅せられ、凛とした主人公の心の動きに心熱くされ、深く考えさせられる、派手ではないが上質の映画だった。