「葛城事件」 映画 この父親をクソ親父と平気で言える奴は、さぞ清廉潔白なんだろうな、おい。
あらすじ:無差別通り魔殺人を起こした次男に死刑判決がくだされる。彼はなぜ史上最悪の事件を起こしたのか? 彼を産み育てた家庭と死刑囚と獄内結婚した女、郊外に暮らす平凡な四人家族と独りの女の事件前、事件後が、過去と現在の時間軸を交差させながら描かれていく。
救いのない陰鬱な映画だ。
でも最後まで目が離せない。目を離せさせない。
映画レビューの多くで、三浦友和演じる父親清を、クズ親父、毒親と断罪し、原因は彼だと語られている。
私にはまったくそう思えなかった。
確かに理想の父親ではない。
彼は不器用で、時代に取り残されてしまっただけだ。
温く優しい母性社会、建前と耳障りの良い言葉や考えが良いとされている現代の日本。戦前や昭和の父性的な価値観は、暴力的で野蛮、誤ったモノで嫌悪される。
どっちもどっちだ。
私には、行き過ぎて調子に乗っている母性的価値観の方が気持ち悪い。
仕事もせずにグダグダと屁理屈ばかり口にして、親の収入に寄生しているダメ息子を叱りつけて何が悪い?
自らの人生を振り返り、勉強ができる長男に勤め人になる事を強く勧めて何が悪い?
自慢の長男が結婚する祝宴に義理の両親を招待し、大切な宴席なので家族で一番良いと思っている店を選ぶが期待以下の味だった、大切な人たちに失礼をしてしまったかもしれないと感じさせる店に対して、恥ずかしさを誤魔化さなければと思ってしまう不器用な男の悲しい行動を誰が笑える?
被害者づらして家庭を維持する努力すらしないくせに、勝手に家庭を捨てる母親を叱りつけ、ぬくぬくと何もしないクソ息子を殴りつけるしか言葉を持たない時代遅れの父親を、平気な顔して責められる奴はどんな奴だ?
「優しい」社会の中で時代に取り残されながら、自分流の方法で家族を愛し、家族のために彼なりに真摯であろうとした父親は、不器用で暴力的な方法でした会話ができないが、その事をパートナーである妻には理解されず、独り空回りするしかなかった。
そんな男を、私は正義づらして安心な場所から断罪できない。
同時に、コンビニ飯を家族の食事として、いつだって悪いのは夫だとしか思わず、間違った自意識を肥大させる甘えの極みの息子をただ溺愛し、子供を育てる事を放棄し悪化させるだけの母親、母性的な行動こそ、もっともっと罪を指摘されるべきだと思う。
母性がダメで、父性こそ復権すべきだと言っているのではない。
否が応でも現代の価値観は、過去とは違う。本人がどう捉えているか何が正しいと思っているかが家族一人ひとり異なり、社会の価値観とのギャップを正す正解を誰も提示できない。
そんな状況の中では、真摯であっても正しいとは限らない、愛が逆に働いてしまう事が怖いと言いたいのだ。
「正しい」「優しい」社会では、この父親が悪だと簡単に見做されてしまう事、正義づらして指摘する人たちの無神経さが気持ち悪いと感じるのだ。
監督は、けっして父親も母親も断罪していない。
映画が提示しているのは、理想の家族の幻想に誰もが囚われながらも実現する事がけっしてできない現代の悲しさと、答えを提示できない状況の苦しさ、圧倒的な救いのない時代の姿だ。
三浦友和が演ずるのは、嫌な親だし正しくはないが、不器用ながらも家族を曇りなく愛している父親だ。数十センチしかない狭い隙間に押し込められながらも、家族のために働き続ける父親だ。見ている世界は狭いかもしれないが、そんな状況を逃げ出さない愚直な男だ。
どう言い訳しても悪いのは、無差別に他人を殺めた次男稔だ。本人以外に罪や責任を問われる人間はいない。
ワイドショー的思考は、家族に社会に原因を求め、加害者の家族や環境に罪を押し付け、安心な場所から「正義」の気分に浸りたがる。
しかしこの映画は、そんな視点の対象となる家族にも明確な理由や罪がない事を淡々と描いていく。人権を口にし、獄中婚をする正義の女性も、正しいものだとは扱わない。
息子の死刑宣告を受け入れ、正義の錦旗を背に歪んで狂った反応をするマスコミと世間の愚劣な行いを経た父親は、死刑を取りやめ息子に一生罪を自問し苦しみながら考えさせるために、生き残させて欲しいと口にする。
その父親が、全てを終わらせるために自殺を試みるが失敗する。
生き残った父親は、独りコンビニの蕎麦をすすり映画は終わる。
これは希望じゃない。この先、彼は一生この事件について自らに問い続け生きて行くしかない、と言う救いのなさだ。
彼は何も悪い事はしてない。
罪を犯したのは息子だ。
それでも彼は、息子の起こした事件と家族の崩壊について、一生をかけて考え続け生きていかなければならない。
コンビニ飯くらいの価値しか無いが、それでも生きて行くしかない苦しさと救いのなさ。生きる事が救いにならない悲劇。
誰にでも薦める事ができる映画ではないし、答えや希望を与えてくれる映画ではないが、現代を生きる事の辛さについて改めて考えさせる観る意味のある映画だ。
観ること 語ること 人はなんでブログで語るのか、とかをグダグダと考えてみた。
映画、舞台や本を観ること、その上で誰かに向けて語ることについてつらつらと思ってる事を書いてみたい。
自分語り、独善的な考え方の話になってしまうので、予めご了解のほど。
小説に登場する映画に関する言葉で、どうにも頭から離れない台詞がある。
村上龍の「音楽の海岸」の中で主人公が語る、「映画なんてものは誰だって好きさ。というより誰だって好きなものが映画なんだ。だから、『わたしは映画が大好き』なんて言ってるような奴は最低のバカなんだ」と言う言葉だ。
映画が大好き、なんてまさに言ってしまいそうだが、この「好き」ってのが曲者だ。
彼女や彼氏、妻や夫から、私のどこが好きって聞かれた時ほど返答に困るときはない。
顔が好き、性格が好き、体が好き、方言が好き、オッパイが好き、優しさが好き…
最初の答えは、質問者の求める事、言って欲しい事を把握さえしておけば、簡単に答えられらが、その先、なんでそこが好きなのと2段目の質問が出てきたら、もうお手上げだ。
突き詰めれば、好きなものは好きなんだよ、と逆ギレ気味に答えるしか無くなってしまう。
映画や小説も同じだ。
この映画が好きだと言った後、なぜを2回か3回繰り返せば、明確なコトバでは語れなくなる。
さらに、なんで好きな映画を観るのと聞かれたりなんかしたら、観たいものは観たいし観たら語りたいんだよ、グダグダ言わずに観させろよと、仏のような穏やかな私ですら、喧嘩腰になってしまうから厄介だ。
聞かれたらなんて考えず、自分が好きなモノは好きで、他人を気にせず観りゃいいじゃん。そんな当たり前の指摘は良く分かってる。
でも、観るだけじゃなくその上で語りたくなってしまうから質が悪い。
「好き」だけでも厄介なのに「私はこれが好きです」まで加わったら、なぜの嵐に抗う屁理屈持ってないと、立ちいかなくなる。少なくとも私は。
映画や小説紹介して金貰う仕事なら明確な目的があるからわかりやすい。
しかし、
・私の好きを披露します
・こんな映画が好きな私は、流行りに敏感です
・隠された意図や構造を、読み取りましたよ私は
・誰も気づかないこんなマイナーなものまで見つけられるの感度の高い私です
・私は皆が褒めてる映画でも、真実を口にして批判できるんです
等など、
商売じゃなく映画を語る目的を考え始めると終止がつかない。
強引に2つの傾向に分けると、「良かった/悪かった映画を、あなたにも観て欲しい」「こんな風に語る私を見て欲しい」になる。
要は、共感と自己顕示欲って事だ。さらに共感の裏にもう一歩踏み込めば、そこには面白いって言ってる私がいて、そんな私の価値観を他者に承認されることで、自らの価値を確認する事と世間への所属を確認する事への欲求だ。
出たよ、承認欲求と自己顕示欲。
何かを語る事を考え始めると、結局行き着くところはここなんだな。
冒頭に引用した村上龍の言葉に戻れば、映画が好きな事はバカではないが、映画が大好きって語ることがバカなのは、好きなのは当たり前だよって事と同時に、自覚的・無自覚を問わず己の欲求を得意げに晒す姿が醜いって事なんだろう。
と言う事で、映画、小説、舞台を語ろうと決めたこのブログで私は、語る事の醜さ、しょせんは承認と顕示の欲求の言葉でしかない事を自覚して、「面白かった」「醜悪だった」「好き」などを語り、少しでも共感と評価を求めようと思う。バカって言われても気にしない。普通の感想って言われても気にしない。
「面白い」て価値も厄介なんだけど、その事はまた別の機会に。
シネマ歌舞伎「野田版 鼠小僧」 舞台 映画
「足跡姫」を観劇した流れで、野田秀樹×勘三郎+三津五郎の舞台を再見。
金の亡者の棺桶屋の三太が、ひょんなことから義賊の鼠小僧となって年の瀬の江戸の町に小判の雨を降らせる。歌舞伎の所作で、野田秀樹の世界に翻訳されたクリスマス・キャロル。
古典芸能としての歌舞伎ではないけれど、大衆芸能としての歌舞伎として、笑って、驚いて、ほろりとさせられ、満足して劇場を後にできる楽しい舞台だった。
二人は盟友として楽しく舞台を作っていったんだろうなと思わせる。
歌舞伎座の回転舞台とセリの機能を存分に活かしたセットの中で、勘三郎がところ狭しと駆け回り、野田秀樹が取り付いたかのように喋り捲る。鳴物は赤鼻のトナカイを三味線で演奏する。
観客が普段の歌舞伎とは違う反応をしている様を楽しみながら演じ続ける勘三郎の表情。
野田秀樹の才能と勘三郎の歌舞伎への想いが、がっぷりと組み合って、観客を巻き込んで奇跡の舞台を作り上げているのが、画面越しでも伝わってくる。
町民を演じる脇の役者達も普段のその他大勢とは違い、舞台の一員として生き生きと演じている。野田秀樹と勘三郎の熱が周りにも感染してる感じが観ていて気持ちよい。
生の舞台を見たかった。
歌舞伎では普段行われないカーテンコールに野田秀樹の姿は見えないが、勘三郎のすぐ隣に立って、にこやかにしてやったりと笑っている様が目に浮かぶ。
舞台の楽しみにあふれた素晴らしい体験だった。
「 クリーピー 」 本 前川裕 読書メーター
「 入らずの森 」 本 宇佐美まこと 読書メーター
ホラーと銘打たれているが、読後の印象はなぜか爽やか。中学三年生の少年少女たちの行動が強く印象に残ったからだろう。人の積年の恨みと地方の因習が、粘菌という半永久的な「生物」と交わる事で起きる惨劇の怖さよりも、構成と筋運びの巧みさから最後まで引きつける力を感じた。
「 夫のちんぽが入らない」 本 こだま 読書メーター
どうして人は、常識や固定概念にとらわれてしまうんだろう?無自覚に自分の正義は善だと平気で言えるんだろう?昨今はその押し付けの度合いが高く、さらに生き辛い。同調圧力、空気読めの傾向が高い日本だけじゃなく、行き過ぎた正論の国アメリカ等も同様だ。子供を作らないと言う普通の選択が、まるでかたわや障害者のような目で憐れまれる事。ステレオタイプの家庭を築けない事への不寛容。「善意」の暴力は相手に無頓着だ。ちんぽが入らない、その一言が言えない社会で、他人や自分の無頓着な常識に傷つきながらも前を向く著者の意志が心に響く。
「 ずうのめ人形」 本 澤村伊智 読書メーター
一つの小さな都市伝説を巡る、ミステリーホラー。小説・映画「リング」で描かれた、感染し拡大していく恐怖の構造を、論理(すこし屁理屈?)的に解釈しつつ、恐怖をつくる人、ひとの想いの恐怖を描いていく。正直、怖さはあまり感じなかったが、謎解きをしていく過程と、恐怖の根源が明らかになっていく描写は、ほどよいスピード感と牽引力のある文章で、最後まで目が離せなかった。作者のホラーへの強い愛情と過去の体験が伝わってくる良作。