『勝手にふるえてろ』 映画 J-COM先行配信試写会 生の感触に勝るものなんてないんだよな
J-COMの抽選が当たった。
綿矢りさ原作、松岡茉優主演。原作は未読なので主人公の造形や妄想の様子が原作通りなのかどうかはわからないが、年齢=彼氏いない歴こじらせ女性の炸裂する妄想を楽しみながら、現実をどう乗り切るかを考えさせる映画だ。
成就せず影から想っているだけだった中学での初恋相手が忘れられない25歳女性が、日々妄想を膨らませ日常を過ごしてる姿が、『500日のサマー』的な演出で、最初は微笑ましく鑑賞できた。松岡茉優だから醸し出せた明るさが映画の魅力だ。
バスで隣り合って座る老婆や、コンビニの店員、釣り人に、だーっと心情を喋り続ける主人公の可愛らしい様子は、彼女の演技力で映画的リアルを獲得している。
やがて、会社の同僚男性から告白されて、妄想の男子か目の前の男かの板挟みになり、妄想がさらに加速して、主人公はひとり頭の中で翻弄されていく。
さらに、理想の男性が現実の男として現れる事で、蓄積された妄想は変化していき、主人公はさらに混乱の中に落ちていく。
目の前で繰り広げられる、若者の恋の話、よくある恋愛映画かと舐めちゃいけない。
目の前の現実の男か、ずっと頭で恋を持続してきた夢の中の理想の男か。この状況は、恋愛の要素をいったん脇に置いて考えれば、諸々のシチュエーションで誰もが折り合いをつける、現実と理想の狭間の悩みの象徴だ。
松岡茉優が明るく健気で、その上ちょっとエキセントリックなだけに見落としがちだし、映画のなかではあからさまに描かれないが、悩みの根幹には生理的な欲望が横たわっている。性欲の対象としての現実の異性と理想の中にいる清潔な異性との綺麗な異性かと悩む問題と膨らむ妄想は、三次元女子と二次元キャラの間で折り合いをつけるオタクの姿と重なると同時に、リア重の金を稼げる仕事か理想を目指す仕事かなどの普通の問題と妄想にも重なる。
処女だとか妊娠だとかのキーワードが重要なモノとしてやりとりされるのも、生々しい現実に繋がる欲望に関わるモノだからだ。
生温く優しい理想の世界に、ずかずかと踏み込んでくる決して格好は良くないけれどストレートな現実の欲望やその結果が、自己完結していた楽しい日々を侵食していき、リアルを晒け出していくシーンが悲しいのは、そのまま私たちの日常だ。
言葉にはしないがどろどろとした欲望を満たすための現実を生きるか、浮き世の汚い世俗的な事を極力排除した理想を生きるか。
答えは人それぞれだろう。一昔前なら成立しなかった成熟して満たされている社会だからこそ発生する贅沢な問題だが、今を生きる以上避けて通れない選択でもある。
特に、己の欲望を明確にしたり言葉にする事を極端に避ける日本人には、なかなか正直に考えられない、本質をずらしそれこそ理想的で綺麗な言葉でやり過ごしてしまう事柄だ。
映画の中で主人公は何を選択するのか、どうやって折り合いをつけるのか、最後まで目が離せない。
暴走する妄想と現実の侵食との間で揺れた彼女が見せた、今この時点での決断と行動は私には心地よかった。
最後に口にする台詞の強さは、己の欲望を肯定できて一歩踏み出せたからこそ投げかける事のできるものだ。聞いている私には、彼女の妄想と同じくらい愛しく感じられる彼女の決意だった。
触れあう事で感じられる温もりや柔らかさ、何よりも生理的な気持ち良さは、他に代える事ができないモノだ。
松岡茉優のこじらせぶり、妄想の炸裂、現実との折り合いなどの演技が全て可愛らしくて好きになる、チャーミングながらも芯の通った良い映画だ。
『漁港の肉子ちゃん』 西 加奈子 本 読書メーター
甘い匂いのする、柔らかくて暖かいものに、優しく包み込まれて時を過ごせるのなら、駄目になっても構わない。男の悲しいファンタジーだ。タイトルと表紙絵から「肉子」に勝手なエロい妄想をしていた。実際に、必ずしも外れな訳ではなかったが、性的なモノが排除された健気な世界、柔らかくて無垢な女性の存在が語り部の娘や港町の人々に優しい影響を与えていく母娘の物語という内容は真逆のもので、穏やかな気持ちになれる作品だった。けれど、決して負け惜しみではなく、性的な意味でも癒しを与える肉子さんな、お話を読んでみたかった。
『組長の妻、はじめます。: 女ギャング亜弓姐さんの超ワル人生懺悔録』 廣末 登 本 読書メータ
『ユリゴコロ』 沼田 まほかる 本 読書メーター
恨みで人を殺したいと思った事はない。殺したくなるほど人を愛した事もない。人を殺す事を目的として殺人の妄想をした事は、正直ある。手記の書き手のような自然な欲求ではないが、妄想は自由だ。もちろん一線を越える事はこの先もない。人の心の深淵を覗いた時、底に見えるのは自分の顔だと言う。主人公が囚われていく気分はきっと深淵の顔と血の繋がりを信じたいと言う愛情への希求なのだろう。拠り所を脱した彼女が、その切っ掛けとなった存在のすぐ傍らにい続けた事、そんな彼女を受け入れ愛し続けた男の二つの想いがこの作品の屈折した希望だ
『神様の裏の顔』 藤崎 翔 本 読書メーター
対する相手の数だけ、人は様々な顔を持つ。全てが本物で、すべてが偽物だ。そう考える本人の意識に対してさえも、本物であり偽物でもある。意識って面倒臭い。ましてや他人の中にある「私」の印象なんて面倒臭いの極致だろう。勝手な思い込みと、都合の良いストーリーの中で存在する「私」が、どんなものかを想像するだけでゾッとする。死んでしまった聖人君子のような元教師のイメージが彼の葬式の場で崩れていく物語は、虚構を信じていた人たちの態度の変化が滑稽で面白い。その上、人は幾つの顔を持つのかを最後まで貫く展開は、純粋に楽しい。
『宿命 (上・下) ワンス・アポン・ア・タイム・イン・東京 』 楡 周平 本 読書メーター
学生運動に遅れて産まれた。しらけ世代の次のバブル世代にあたる。高校の頃には、学生運動に対して憧憬と軽蔑と少しの恐怖を抱いていた。教育実習生の日報に「革命を忘れるな!」などと書いたりもするおかしな餓鬼だった。マスコミの端くれに就職すると学生運動の残党が多くいる事に驚くと同時に、のほほんと普通に企業で働く様に怒りを感じたりもした。主人公の女性が革命の火を胸に抱き続け、人の人生を狂わしてでも実現しようとする姿に、かくも革命のロマンは根強く滑稽なのかと改めて感心した。革命の先には何があるのか?永遠に解けない謎だ。
宿命(上) ワンス・アポン・ア・タイム・イン・東京 (講談社文庫)
- 作者: 楡周平
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/08/12
- メディア: 文庫
- クリック: 5回
- この商品を含むブログを見る
『ブレードランナー2049』 映画 アンドロイドは、電脳女の夢を見て夢精するか?
IMAX3Dにて鑑賞。
丸の内爆音映画祭でチケット購入していたが、諸般の事情で観られず、やっと鑑賞できた。
観客が数人しかいなかった地方の映画館で、身体と脳味噌が震える興奮をしながらも、誰にも語れない/語る相手がいない体験をしてから、35年。
まさか、正当な続編、あの時と同じかそれ以上の興奮をスクリーンで味わえる事か出来るとは思っていなかった。
オープニングの瞳と風景から始まるファーストシーンん観ただけで、興奮に震えた。
P.K.ディックの原作は、前作のオリジナル版を観る前から何度も繰り返し読んでいた。
マーサー教、感情オルガン、機械仕掛けの羊、レプリのLAPDなど、原作の魅力ある設定が大幅に切り捨てられていながらも、人と人でない者の違いは何なのかと問うディックの根元的なテーマは、しっかりと掘り下げられていて、それらをかって一度も観たことのないリアルな未来のヴィジュアルの洪水で形にした映画に、ノックアウトされたのが今でも思い出せる。
新作『2049』の衝撃はいくつもあるが、何よりも響いたのは主人公KとAIジョイとの恋だ。
デッカードとレイチェルの恋の先にある話がストーリーの根幹に流れながら、それに上乗せる形で現代に繋がる情動を投げ掛けてきた。
この点から観ればこの映画は、切実で、ピュアで、残酷な恋愛映画だ。
×ここから先は、ネタバレ気にしてません。
前作で一番痺れたのは、非人間的な行動をする生物としての人と、人間的な行動をする人工物のアンドロイドは、どちらが本質的な意味で「人」であるのかと言うディックの身を削る問いを、人であるデッカードが冷酷にレプリカントを殺害し、レプリカントのロイが最後に人を救うというストーリーで、映画的な興奮と共にスクリーンから投げ掛けてきた点だ。
動物のように雄叫びをあげるロイが、震えるデッカードを救い命を全うする。あの瞬間より人間的だったのはどちらなのか。
その経験を経たから、デッカードはレイチェルを恋する相手として逃げる。そしてレイチェルは普通の人のように生き続けたとナレーションで語られる。
死を恐れ、生きることを望み、対する相手に共感を抱き接する事ができる存在は、物質的に何からできていようが「人」である。
だから私にとってデッカードは、人間としか考えられない。レプリカントではないかと言う話題や監督の発言があっても、いやそう言わせるような存在だったからこそ最終的に「人」なんだと強く思う。
この二人の逃避行から続く『2049』の中で、レプリカントであるはずのレイチェルが出産をしていたことは、「人」として逃げた二人結果としては、当然の帰結だ。
どんなにテクノロジーが進化しても人工物の中で細胞分裂をおこし胎児が育ち、出産された子供が成長して行く構造なんてありえない。それを可能にする存在はすでに生物としての人だ。天才タイレルが創造したネクサス7は、人と寸分違わぬ存在だ。いや人そのものだ。
ウォレスの造ったネクサス9は、そこに及ばない人工物としての存在ながら、感情という部分では、人と変わらない。
その新たに加わった存在を主人公とすることで『2049』は、ディックのもう一つの、自意識を感じているこの私以外の回りにいる全ての存在が本当に私と同じようなリアルな存在なのか、そもそもそう考えている私自身のこの感覚がリアルなものなのか、という問いを突きつけてくる。
自らの存在を裏付ける記憶や感情が後天的に植え付けられたものなのか経験として手に入れたものなのか、今生きているこの瞬間に絶対的な答えを出すことは出来ない。完全に記憶を植え付ける技術があればいくらでも捏造が可能だから。かなり中二病的な問いだが哲学的な問いなんてそんなもんだ。
明確な答えが出せないこの問いも、人とは何かの問いと同じく、最終的にはそこにある瞬間の行動と思いでしか人か否か、リアルなのかフェイクなのかは決められないという答えが、人にとって絶望であると同時に希望なのだ。
『2049』でKは、自分の記憶を巡り奔走し、状況に弄ばれ、やがて絶望を感じる。
しかし最終的に、デッカードの命を救い、娘との邂逅を実現させる。
この行いから判断すればKはリアルな人以外の何者でもない。ネクサス8を冷徹に処分する人でないブレードランナーが、最後には雪に包まれ人として死んでいく。
美しく切なく、そして希望と安らぎを感じる素晴らしいラストシーンだ。
他にも映画に溢れる水の様々なイメージ、光、ペットとしての動物、ヴァンゲルスをリスペクトしたテーマ曲、進化した屋台などの街の有り様、前作では直接的に表現されていなかったセックスの扱いなど、書きたい事語りたい事は山盛りにある。
またこの先長い期間何度もなんども鑑賞し興奮し続ける事のできる映画、少なくとも私には、がこの『ブレードランナー2049』だ。