『夜空の呪いに色はない』 河野 裕 本 読書メーター

夜空の呪いに色はない (新潮文庫nex)

夜空の呪いに色はない (新潮文庫nex)

 

 このお話が、捨てられた者たちによって紡がれていることに改めて心が痛くなった。捨てた側の者たちも登場するが、彼らは彼らで真摯に生きているだけに、そんな彼らから捨てられた主人公たちが真摯に生きていく姿は凛々しくあると同時に痛々しい。一つひとつの思いや考えを丁寧に言葉にしていく、もしくは言葉にできない事柄の形を表現していく、作者の文章には、毎回心打たれる。生きていく事の責任、歳を重ねる事の重さをしっかりと受け止める七草、真辺たちはもちろん、それ以外の全ての登場人物が愛しくて仕方ない。

『トレイン・ミッション』 映画  初老、がんばる

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ジャウム・コレット=セラ監督、リーアム・ニーソン主演の『フライト・ゲーム』に続く、郊外の住宅地とNYを繋ぐ通勤コミューターを舞台にしたハイテンションアクションムービー。

「沈黙」のスティーブン・セガールか、密室のリーアム・ニーソンか、だ。

 

列車を舞台にした傑作は、内外に数多い。『ミッション8ミニッツ』『カサンドラ・クロス』『暴走特急』『アンストッパブル』『新幹線大爆破』...あげ始めたらきりがないほどの傑作揃いだ。

密室とタイムリミットと言う2大要素が緊張感を産み、サスペンスを盛り上げる。

 

そんな中、あの傑作『フライト・ゲーム』のコンビが飛行機に続いて通勤電車を選んだのだから、鑑賞しない訳にはいかない。

大傑作とは言えないが、十分に見ごたえのある映画だった。列車映画に新たな傑作が加わった。

 

列車を舞台にした映画の多くは、コントロールの効かなくなった列車の行方がサスペンスの肝になるのだが、この映画のポイントは列車そのものではなく、密室の空間で展開される謎がサスペンスだと言うのが面白い。

 

基本の構造は『フライト・ゲーム』と同じだ。謎の人物を密室の中で探し出す。その中で次々と困難な障害とアクションが発生し、我らがリーアム・ニーソンが、高齢な肉体とタフな精神で解決していく。

それだけの映画だ。なのに最後まで目が離せず、テンションが途切れることがない。

脚本の練り込みの高さと、贅肉を削り取り台詞でなくカットで状況を説明する演出のおかげだ。

主人公の背景を、説明的な台詞抜きで理解させるアバンタイトルだけでもよく分かる。

 

ストーリや謎の部分の面白さを紹介すると、映画の面白さが半減してしまうので詳しくは書かない。

残念ながら『フライト・ゲーム』で驚かせてくれた”あんなシーン”に代わる驚きのシーンはない。が、列車ならではの◯◯や◯◯はしっかりと見せてくれる。(予告やポスターでも分かるだろうが)お約束の◯◯もかなりの迫力だ。しかもそれだけで終わらない。凡百な映画ならそこをカタルシスにする所を、謎解きとそれにまつわる事柄を最後のカタルシスにしている所が凄い。中盤以降、次々と発生する事柄が繋がっていき、エンドタイトルではお腹いっぱいになる。

もちろん振り返れば突っ込みどころも多いが、そんなつまらないリアルの事は鑑賞中は忘れさせてくれる。普通の生活を送る少し疲れた60歳の主人公が、状況に徐々に巻き込まれていく中でヒーローになっていく過程が、無理なく描かれる。

 

良質なサスペンス映画として、映画館での鑑賞をお薦めする。

初老のリーアム・ニーソンの、アクション俳優らしくない活躍をハラハラとしながら観るだけでも十分に楽しい。

『シェイプ・オブ・ウォーター』 映画 身体と心が満たされるセックスは、醜女だって美しくするのだ!

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2018年アカデミー賞作品賞受賞作。

奇才デル・トロ渾身の、異形な二人のファンタジー・ラブ・ストーリー

 物語は、ありきたりなお伽噺だ。

 

人魚姫は一目惚れした王子に会うために、想いを伝える声を失った。

本作の主人公イライザはあらかじめ声を失っている。恋する対象である人魚は発する声を持たない。

それでも次第にお互いの想いが通じあっていく様子が、この映画では素敵に描かれる。

優しい気分になって、誉めたくなる、大切にしたくなるのは良く分かる。

 

しかし、私にとってこの映画は、優しいものではなく、セックスの満足こそが全てだと唄い上げた映画だ。

マイノリティな嗜好を否定せず、それぞれの性的快楽の追及こそが幸せだと静かに叫んでいる映画だ。

 シェイプ・オブ・ウォーター = me = 愛の形を描いた、マイノリティを肯定する映画だ。

 

映画の中では、主要な登場人物のセックスとその満足度について、しっかりと描かれる。

敵役の男ストリックランドは、欲求不満の妻から強制的にベッドに誘われ、乗り気でないながらも、始めればマッチョな欲望をぶつけるだけのセックスをする。ノーマルな二人の性交はただの獣の交わりにしか見えず、心は互いに擦れ違ったままだ。

主人公の友人の画家は、ゲイとして欲望を開放したいと思う若者に気色悪いと言われ、セックスも心の交流も拒絶される。

主人公の同僚ゼルダは、結婚当初は絶倫の旦那に毎日満たされていたのに、最近ではまったく相手にされず、旦那の存在そのものが邪魔になっている。

この満たされないセックスの状態にある3人と性的な話と無縁なロシア人が、主人公を助け、彼女の充足した人生を実現していく。

 

イライザは、満たされる事のない毎日の中でオナニーを日課にしていた。セックスの代替行為で一人自分を満たす事で、自己完結していた。

彼女はモンスターと出会い、心の交流を重ね、やがてセックスを行う。

自己完結していた女性が、異形の異性により体の欲望を満たされるのだ。

パカッと開いて、ズドンと飛び出す性器の話をする時のイライザの嬉しそうで楽しそうな顔は、可愛らしい。

例え、異形=獣との性交について語っていたとしても。

 

部屋から溢れるほど溜まった水。

滴って周囲を濡らしまくる水。

一挙に開放されて飛び出していく水。

 

シンプルで力強いエロス、女性のエロスを直接的に描きながらも、色彩のマジックによる美しいシーンが続き、スクリーンから目が離せない。

 

身体も心も満たしてくれる相手を見つけ、手に入れた最高に幸せな女性が願うのは、その浮遊感溢れる快楽の永遠の持続だ。

社会から切り離され、男と女だけの世界になったとしても。

それは狂気でもあるが、狂喜でもあるのだ。

だからこそ、ラストシーンは美しく、同時に儚い。

 

 デル・トロ監督は、怪魚人映画への愛と『美女と野獣』への不満からこの映画を創ったと言う。

野獣が美しくなるのではなく、野獣のまま愛しあうべきだと。

言葉にこそされていないが、野獣のまま愛しあうことにはセックスも含まれ、本人にとって幸せであれば獣姦ですら美しく正しい行いだとメッセージを発している。(獣姦肯定ではなく愛に正しい正しくはない。本人に充足を与えるのならばマイノリティな嗜好でも否定はできないって意味だ)

 

幻想的な色彩と、優しい登場人物、お伽噺の筋立てで、上手に隠してはあるけれど、このメッセージこそが、監督が偏愛している事柄の核だと私には感じられた。

 

 

過去の映画へのリスペクトや、レトロな空気、映画の快楽に溢れた画などから、老体のアカデミー会員を煙に巻き、見事受賞に至ったが、そこに込められた想いは、まっとうな人たちは明るい公の場所では認められない、しかし切実で強い「愛」の讃歌だ。

 

デル・トロ監督は、本当に凄い。

 

キリストの復活を象徴してるだの、これで怪獣映画もアカデミーが取れるようになっただの戯れ言はどうでも良い。

画家の部屋の壁面に北斎の富岳百景の浮世絵が隠されているように、美しく優しい怪獣映画の後ろに隠されているセックスの物語について、マイナーな性的嗜好も否定しない「純粋な」愛についてもっと語られるべきだ。

と私は思う。

『大聖堂』 上/中/下  ケン・フォレット 本 読書メーター

大聖堂 (上) (ソフトバンク文庫)

大聖堂 (上) (ソフトバンク文庫)

 

大聖堂の建立をコアにした、欲望や思惑に奔放する人々の大河小説。上巻だけでどこまで広げるかとページをめくる毎に興味が深まっていく。こういった大河ゴシックロマンも面白いな。ある意味物語の王道でもある。

 

 

大聖堂 (中) (ソフトバンク文庫)

大聖堂 (中) (ソフトバンク文庫)

 

中世イングランドの世界が目の前に広がるかのように、登場人物たちが活き活きと物語を紡いでいく。勧善懲悪の単純な物ではないそれぞれの欲望が悲劇を産み、同時に希望も産んでいく。欲望と対極にあるはずの大聖堂そのものが、すべての欲の中心となっていることに痺れる。後半に描写されるジャックとアリエナの交接が、あまりにも生々しく、同時にあまりにもピュアな恋で、あまりにもストーレートな欲望で、読んでいて照れくさいと 感じながらも欲情した。交接と恋がこんなにも素直に両立した言葉になるとは。怒濤の物語の行く末から目が離せない。

 

 

大聖堂 (下) (ソフトバンク文庫)

大聖堂 (下) (ソフトバンク文庫)

 

 遂にキングズブリッジに大聖堂が完成した。繊細で優雅で堂々たるその姿を想像するだけでも感無量になる。同時にフィリップが最後に行わざる得なかった行為のなんと皮肉な事。聖なるために邪な行為を選択するしか道のなかった彼を思うと胸が熱くなる。人は理想のためには理想を捨てなければならない。このアイロニカルな真実を突きつけながらも、目の前に存在する巨大な大聖堂。そこにある荘厳な姿は、多数の様々な人々の欲望と理想の清濁全てを覆い隠した上での聖なる顔だ。神的なものだけてなく畏怖を感じずにはいられない。

『八月の犬は二度吠える』 鴻上 尚史 本 読書メーター

八月の犬は二度吠える (講談社文庫)

八月の犬は二度吠える (講談社文庫)

 

暑苦しいほど濃密な仲間なんていなかった。片田舎の街で、東京に憧れて地元を心底恨んでる奴は浮いていた。だから主人公の気持ちがわかると同時におめーは恵まれてるんだよと思いながら読みきった。10代の後半、二十歳になる直前の馬鹿馬鹿しさを共有できる「アイツ」のいない私には二度めの犬焼きにかける情熱は、共感できるものではなかったが、グダグダと自分が何かを作る側だと無根拠に信じながらも、何も形にできない苦しみや自意識はまるで自分自身かのようで共振した。今あの瞬間に戻ったら、次は彼らのような友情をものにできるだろうか?

『慈しむ男』  荒井 曜 本 読書メーター

事件カメラマン天羽眞理子 慈しむ男 (角川文庫)

事件カメラマン天羽眞理子 慈しむ男 (角川文庫)

 

今時のコインロッカーベイビーは、コウノトリポストから産まれた。赤ちゃんのぺニスを咥え薄荷煙草みたいだと感じた母親は、無抵抗な存在に嗜虐的な行為を行う存在になっていた。望まれず産まれた存在が、祝祭で日常を無秩序に陥れ破壊しようとする物語は、嫌いじゃない。むしろ共感を抱く。冒頭の東京タワー破壊には度肝を抜かれ、落ちてくる子供の残酷な美しさには震えたが、私の中の破滅への意志が共振できなかった。過剰と蕩尽の本質があと一歩突き抜けてこなかった。小説賞の大賞で受賞作らしい野心と荒削りな力に溢れた作品だ。

『哭声/コクソン』 映画 信じぬ者は救われぬ

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映画の興奮に満ちた映画だ。

ジャンルは関係ない。

ここで描かれる残虐なシーンや血みどろなカットの興奮はもちろんだが、核にある人の醜さとそれに対応したかのような物語の展開が、鑑賞中、鑑賞後も興奮を持続させる。

鑑賞した人たちが、語りたくなるのも良くわかる。

 

この映画の一番の魅力は、不気味な謎の日本人を演じた國村隼に尽きる。

彼がスクリーンに出てくるだけで空気が変わる。その上で白褌で、鹿のナマ肉を四つ足で喰らうなど、次々と強烈な役を演じきっている。

彼を観るだけでも充分に鑑賞の価値がある。

その上で、映画から感じ語りたくなるようなマジックに満ちた映画だ。

観て、感じて、語って欲しい。

 

 

韓国の山奥にある田舎町で起こった猟奇事件から幕が開き、住民と交流しない不可解な日本人と連続する事件の関係について主人公や住民たちが疑心暗鬼になって行く。

映画評論家の町山智浩によく似た主人公と周囲の人々が、疑心暗鬼に落ちていく過程が丁寧に描かれる。韓国、しかもど田舎の寂れた町にふらりと現れた得体不明の日本人という、それだけでも住民が騒つき悪意をぶつけるだろう存在が、愚かな小市民たちを静かに狂気に導いていく。監督の底意地の悪さが現れた設定だと思う。中国人か日本人を最初から考えていたという。狙い通りだ。

 

明確な説明をつけない突き放したエンディングが、心地よい理解や共感を生まないために、鑑賞後誰もが、映画の中で起こった出来事や登場人物の真意、真実を語りたくなる。

観た人ごとに解釈が異なり、それぞれが意味付けをしたくなる時点で監督の勝ちだ。

 

猟奇殺人の原因は、所々で描かれる毒性の高いきのこを使用した健康食品による精神と身体の変化と崩壊から起こった殺人だ。

國村隼も、白衣の女性も、祈祷師もその原因ではないことは、明確ではないが、きっちりと伝えられている。

何より映画冒頭で語られる聖書の一節が全てを説明している。

霊だと思っている人には、キリストですら人には見えず疑いを抱くのだ。

真相ではなく、自分が信じたいと思っている悪意、悪霊の存在が真相だと信じてしまう事の醜さがこの映画の投げかけるものだ。

真相だと信じる解釈を語る観客達の姿は、自ら信じるものに取り込まれた主人公達と同じものだ。

それこそ、監督がこの映画に仕掛けたものだ。

醜く愚かな人の姿をスクリーンの上だけでなく、観客も巻き込んで感じさせる。

底意地の悪い、映画ならではの面白さだ。

 

國村隼も、祈祷師も、白衣の女性も、さらに家族すら信じられなくなって酷い行為を行う主人公の悲劇は、自業自得だ。彼は最初から最後まで誰も信じ抜く事はなかった。ただ感情のみで犬を殺し、日本人を集団で襲い、仕事を放棄し、祈祷師の儀式をぶち壊し、白衣の女性に禁止された行為を行う。

救われる要素が一つもない彼に、感情移入したり共感する事は一切ない。一見主人公として最悪だが、映画の意図とはぴったりと一致している。

信じない、信じられない、思い込みだけで行動する人間の象徴そのものだ。

最後に彼に訪れる事は、そのまま人に訪れるものなのだろう。

 

こんなに愚かな人の姿を描く事ができる映画という娯楽は、なんて強烈なものだろう。

こんな凄みに溢れた作品を産み出せる韓国の環境を羨ましく思う。

恋だの青春だの一義的な安易な事しか金にできず、キラキラ映画に溢れた邦画の悲劇が悲しい。

 

【蛇足】

この映画を、キリスト教的な視点で解釈したり、韓国でのキリスト教のあり方から解釈している評をいくつか読んだが、どうにも気に入らない。

特に、國村隼はキリストで、祈祷師はユダだとか、登場人物それぞれをキリスト教の主要な人物にあてはめて解釈している内容には悲しくなった。

それがどうした?

韓国のキリスト教について語るなら統一教会を始めとする「韓国キリスト教」の歪みを語らない限り意味のない知ったかぶりの言説だ。

綺麗に解釈しているつもりだろうが、映画の面白さを一切深めていない。

町山智浩も時にそうなるが、いやそういう事が多いが、あれはこういう意味なんですよ、こんな暗喩なんですよと、「深い」教養から解釈や意味を語る事はあるが、その先=映画の面白さや観客に映画の喜びをを伝える事がない解釈はただの自慰行為以外の何物でもない。

俺って偉いでしょ、賢いでしょ、って顔つきが気に食わない。

その暗喩や解釈が、その映画の何を担っていて、だからこの映画はこういう面白さに溢れているんだって明確に語れない解釈は、百害あって一利もない。

昔から蓮見が大嫌いな理由は、それだ。映画批評で価値があると思えるものは少ない。

てめえの高い意識や教養での解釈が、自己満足以外の喜びを与えているか、心の底から考え直して欲しい。

個人的な好きだった嫌いだ、面白かった退屈だったって感想の方が読み応えがあるし、読んでいて意味を感じる。

 

この話は改めて別な記事として書きたいと思う。