「座頭市」 北野武

勝新太郎座頭市だと言う呪縛を断ち切った、意欲作。
CGの処理には好き嫌いがあるだろうが、俺は楽しんで観賞できた。
定番のストーリーだけれど、だからこそ座頭市の神髄、時代劇の神髄を正面にすえ、今北野が時代劇を撮影するんだと言う想いがびしびしと伝わってきた。金髪の座頭市と言う設定だけでも、監督の意気込みが伝わるってものだ。
勝新から決別し、新しい座頭市像を作り上げようとしている、その姿勢だけでも観る価値がある。映画なんて奴は、そういう監督の想いを感じるだけでも充分って言えば充分なんだ。
満足した部分が多いだけに、残念な事にこの作品には大きく不満が残る。オープニングのシーンから新座頭市の世界に引き込まれ期待は高まる、その後の畑仕事をする連中のリズムがこの映画に大きく関係するのだろうと思わせさらに大きな期待が高まるのだけれど、残念ながらそのリズムがうまく映画に活かされていない。極道と浪人と按摩と言うアウトサイダーに対して、強く生きる村人逹の力強さを象徴する熱いリズムは、上手に映画の中に流れていない。
そのリズムは冒頭の畑とラストのタップダンス祭りだけにしか表現されていない。鈴木慶一の音楽は悪くはないし、あのリズムを意識した良い作りだけれど、BGMにリズムが存在しても映画の中には、冒頭で提示されたリズムを感じる事は無い。
だからラストのタップダンスの祭りは、この映画には必要ない。邪魔だ。底辺で生きる百姓や村人の一見弱いけれど力強い生活力を一方の存在として描くための祭り=タップであれば、もっと映画全編に定音として流れているべきなのだ。しかしこの映画にはそれが一切ない。冒頭でこの映画の一つのリズムとして農民のリズムがあると思わせるのだから、もっと所々でそのリズムを表現しなければいけない。黒沢の映画にあった村人の祭りの踊りは、映画全編に流れるリズムの高まりだし、必要なものだった。形だけ同じような村人の熱いリズムは、ここでは無駄な監督の想い以外の何物でもない。ついでにように扱われるタップのリズムは、単に監督だけが拘っているつまらない事としか感じられない。それ意外の主軸にあたる異人座頭市の存在感と、行動の凄さは文句の言いようがないだけでに残念だ。
流浪の異人。アウトサイダーと異人。コミュニティーと異人と言う、座頭市のテーマは充分に昇華され、見応えは充分だし、殺陣だって、今の技術とセンスとして最高の形の一つを提供していると思う。(雨の中の殺陣は格好良いのだけれど、映画の中では活かされていないのが残念だけれど)
それだけに、余分な部分に足を引っ張られた形の残るエンディングはもったいない。あんな祭りはいらない。盗賊の親分を切り。異国の人である事を匂わせて、それも嘘かもしれませんって言う躓きで終わらせればそれで充分だったのに。照明だってキタノブルーだって、文句の付けようのない形で映画の世界を構築しているのに残念だ。説明不足な描写も乾いた時代劇には最適な表現方法だ。
勝新太郎のものだけだった座頭市を、普遍的な映画の登場人物として解放したこの作品以降、新たな時打劇のヒーローを誰か作ってくれるのではないかと、期待したい。これに刺激されて子連れ狼なんかを誰か作ってくれないものだろうか?