「ブレードランナー ファイナルカット」

バルト9の劇場最終日に、仕事放り出して19時の回に飛び込んだら、最終回まで全て満席だと鑑賞できなかった。スクリーンで鑑賞できなかったのが残念でならない。20年近く前、劇場で初めて目にした衝撃を、再体験したかった。
と言う訳で、家の簡易ホームシアターでDVDで鑑賞。
今までオリジナル擁護派だった俺だれれど、このファイナルカットには痺れた。実はディレクターズカットのDVDもすぐに購入していたのだけれど、一度も鑑賞してなかった。最初に観たオリジナルの衝撃を失いたくなかったから。(と言っても高校・大学時代には違法コピーのビデオで何回も観ていたし、レイトショーでデートで鑑賞したこともある)
映像音楽の全てに手を加えられ、重層的な音響と、深みを増した映像は、家庭のスクリーンでも満足できた。ホント、スクリーンで観たかった。
手を加えられたビジュアルは、細部までクリアに表現され、重層に広がった音響は世界を膨らませている。
一部で話題になっていたデッカードの瞳が赤く光るカットをどうしても見つけることができなかた。
もともとP.K.ディックのファンな俺にとっては、デッカードがあからさまにレプリであるなんて表現は必要ない。アンドロイド=冷酷の存在が人を救う感情を持ち、人間=感情移入を行うことのできる存在が冷酷に人型を殺戮して行くプロセスで、アンドロイドと人間の差異、どちらがはたして「人間」なのか?デッカードは人間でありながら、よりアンドロイドな存在になってしまうと言う、逆転の世界が「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」のテーマだと俺は思っているから、デッカードはレプリだと直喩するのではなく、人間でありながらレプリであると見せてくれる方がよりしっくりくる。だから実は一等最初からおこの映画で不満な点は、レプリ狩りを行う過程でデッカードが最後まで内省的で、恐怖を感じてしまっている点だ。人に限りなく近いものを殺す過程で、殺人の感傷を無くしレプリを処分する。その上で、バッティとの死闘の中で恐怖に駆られながら殺人を遂行しようとしたデッカードが、レプリに救われる。ここがより明確であれば、俺にとってこの映画は満点だ。エンディングの違いはそんなに問題じゃない。
なんてのは、俺だけの無い物ねだりで、実際にはここまで寡黙でいくらでも解釈が可能な世界を、圧倒的なビジュアルで、眼前に展開してくれたリドリー・スコットの世紀の偉業に、ただただ酔いしれるだけで幸せな時間だった。