「皆、シンデレラがやりたい。」 舞台・根本宗子作、演出 下北沢本多劇場 こじらせアラフォー女に魅せられて
シンデレラって、なるもんじゃなくて、やるもんだったんだな。恐るべしアラフォー女子。
自らの劇団の本公演ではなく、外部プロデュース公演。
根本宗子が劇団☆新感線の高田聖子、大人計画の猫背椿、ナイロン100°Cの新谷真弓の三大看板女優を迎えて、アラフォー女三人のこじらせまくりな痛々しい世界を描く。
マイナーアイドルを追っかけしてるアラフォー女性三人を演じてる、高田さん、猫背さん、新谷さんの存在感が半端なかった。舞台の上で活き活きとリアルに、痛々しい大人の女を楽しそうに演じていた。
ストーリーが進む中で、やがて三人の間の見えないようにしてた溝があらわになり、物語がは思いもよらぬ展開をむかえる。
いつもの根本宗子だったら、最後のここで舞台ならではの大仕掛け、チャンバラ合戦や時空のジャンプなどで一気に物語を大転換させるのだが、
今回は違った。アラフォーこじらせ女子の日常の延長にある転換で、痛々しさを、カタルシスにまで昇華してみせた。
高田さんの演技もあって、あの瞬間痛いこじらせ女が、輝いてみえるんだから不思議だ。
高いテンションと、マシンガンのような台詞の応酬で、観客をぐいぐい引っ張っていき、痛さや愚かさを笑いで救いながら心にグサグサ突き刺さる台詞を投げつけてくる根本宗子らしい舞台だったが、今回はいつもとちがう外部のベテラン女優の三人がさらに作品を深化させ、こじらせ女の痛さ、それでもシンデレラがやりたいという哀しい女のサガを、突き抜けた先の輝きにしてしまう強さ。
最強の舞台だった。
次回は本公演らしいが、本公演でも外部プロデュースでも、小劇場でも大ホールでも、そこにあわせた力技の舞台をぶつけてくる根本宗子。未見のかたはぜひ一度舞台をご覧ください!
「鍵師ギドウ」 本 大門剛明 読書メーター
難攻不落の錠前を解錠したのは誰だ?物理的な鍵だけでなく、人の心の閉ざされた部分も同時に解いていく天才鍵師の設定が面白かった。残念ながら文体が合わず?になる描写がいくつかあったり、人物の造形や谷中など地域への視点に新しさを感じられず、普通に面白かったで終わってしまった。東京の東側を中心に自転車で飛び回る天才鍵師ってのは面白いんだけどね。ハミルトンの「解錠師」とは違う、鍵をめぐる日本のミステリーを期待していただけにちょっと肩透かし。
下町を自転車で駆け抜ける鍵師って、昔フジテレビのドラマで、渡辺謙が「鍵師」シリーズってやってたみたいだった。テレビにありがちな人情オチなんだろうけど、観てみたいな。
「虐殺器官」 映画 英語しゃべれなくて良かった〜
Project Itohの大トリ、ついに公開。
傑作。大傑作。
制作会社自己破産の危機を乗り越えて、良く公開までこぎつけてくれた!
経緯につては、こちら。
この作品が日の目をみなかったら、大きな損出になるところだった。
大傑作とは言ったが、誰にでも薦められる作品じゃないのも確かだ。
ついでに書くと、「映画を観る事」「映画を語る事」についても考えさせられた。
長くなりそうなのでそれは、また別な話としてこちらで。
この映画で得て感じるものは、誰もが体験を楽しめたり、カタルシスを得たりできるものではないからだ。
人は意識を持って自主的に行動していると思い込んでいるが実際には、先に言葉があり意識が生まれると言う事を、「虐殺器官」「虐殺の文法」と言う虚構をもって露わにする。
理性的であると同時に人は残虐であること。それはけっして理性でコントロールできるものではなく、自己生存を目的とした利他的行動と虐殺は、その本質においては同質なもので、対立する二元的なものではなく、人の根本にある生存のためのみにアプリオリに持つ器官=本能だと言う真実。
その上で自らが愛しいと思うものを守るために他者を虐殺の犠牲にする事。そうした不都合な事を意識せず見ない事で成立する熟しすぎた私たちの住む先進国の現実の姿。
見えない他者に対しての罪からそうした世界でも虐殺の本能を解放し世界を変えようとする主人公の最後の行動。
このスリリングで危険なヴィジョンを、高いクオリティのアニメーションで描ききった映画が面白くないわけないが、万人が楽しめるとは思えない。
原作の小説を読んだ時に、ああこれは「闇の奥」なんだなと思ったのを覚えている。
狂気の存在を追うために密林の奥に進む事で、同時に人の心の奥に踏み込んで行く主人公、その主人公が「狂気の人」の騙りに触れる事で、「理性」と「狂気」の意味や根拠が崩れ、キリスト教的な価値観と近代西洋的な二元論を基にした価値観を超えたものを読者に突きつけてくる。
現代のテクノロジーや最新のミリタリーガジェットを衣装として纏い、乾いた文体と覚めたユーモアと諦観に近い冷たい社会観で残酷で独特な世界を築きながら、「闇の奥」で提示されたテーマを現代にリブートしていると感じたのだ。
映画を観終えて、ストーリーの展開や構造は特に似ていたわけではないが、テーマはやはり「闇の奥」に連なるものだと再確認した。「闇の奥」へ進みその先にまで歩みを進めたものだ。
原作で印象的だった母のエピソードや、細かな展開を削除したのは、この作品のテーマを一本の映画としてまとめ上げるのに大きく貢献していると思う。
伊藤計畫の小説は、何かに代えられるものではないし、彼の文体で描かれる内面を饒舌に語る主人公は、とうてい映画で描く事はできない。小説で描かれたコアを映画として伝えるための方法としては見事で最適な構成だ。逆に原作の大ファンからしたら物足りない駄作に写るかもしれない。しかし、伊藤計畫が書いたミリタリーのガジェットや戦闘などが映像としてスクリーンで描かれる様子を観るだけでも十分価値がある。
物語で伊藤計畫が描いた刺激的なヴィジョンを、言葉と言うツールを使えない映像で見事に描ききったこの作品は、不都合な真実を顕にしスリリングで強烈な刺激を脳に突きつけてくる。残酷なシーンも多いが、欺瞞や上っ面だけの綺麗ごとの優しい理性に閉塞感や厭気を感じている人にはぜひ観てもらいたい映画だ。
「南冥の雫 満州国演義八」 本 船戸与一 読書メーター
「雷の波濤 満州国演義七」 読書メーター
「ルパン三世 カリオストロの城 4DX版」 この完璧な映画を超える作品を、俺は未だ知らない
38年ぶりにスクリーンで鑑賞。
あらすじは、要らないよね。
アバンタイトルのカジノ襲撃から、オープニングを経て、クラリス奪回までの流れの完璧な事!!緩急メリハリの効いた構成、静寂と騒音のカット割の完璧さ!ワクワクしてしんみりして手に汗握るこの展開に約10分、テンポ、台詞、動き、メカへの細かい拘り、キャラの動きと表情の作画、何よりもスクリーンに展開される映画としてのドラマ、これを傑作と言わずして何を傑作と言えば良いのか。
懐かしさと完璧さに、劇場ではこの時点でボロ泣き。宮崎駿はやっぱり天才だよ。大塚康生とのコンビが最高だよ。鈴木ファッキン敏夫なんて邪魔なだけだよ。
宮さんにシナリオから作監まですべてを預けちゃいけないよ。
などと、老害な感想でアタマが一杯になる。
当時、アニメージュ別冊のロマンアルバム買って、コンテの一枚いちまい、採録シナリオの台詞の一つひとつ、設定集の細部の書き込みを何度もなんども読み込み、台詞とSEとBGMが収録された音声だけのLP買って擦り切れるほど聞いたのを思い出す。
あーもう暫くは映画は要らない。
湖から出現したローマの遺跡をお姫様抱っこで歩き、手を繋いで登った丘の上でインターポールの落下傘部隊を美しい風景として眺め、抱きしめたい気持を痩せ我慢の塊として我慢し、オデコにだけちょこんとキスをして、明るく手を振って去っていくルパン。
健気に泥棒を覚えますとつよく語り共に歩みたい思いを精一杯口にして、初めてのキスを素直に捧げようと目を閉じるクラリス。
去って行くルパンを追い、世界で一番ロマンに溢れる台詞を口にして、敬礼と共にウインクをして去っていく銭形。
牛詰めのトラックの荷台からお姫様に手を振りながら去っていく埼玉県警の警官たち。
思い出し言葉にしているだけで、改めて涙が出てくる完璧なメロドラマ、男の浪漫満載のエンディング。
完璧だ。映画館で初めて観た瞬間、映画ってなんて素晴らしく心を動かすものなんだって震えたあの瞬間が蘇る。
この映画を経て、数十年(!!)が経ってしまったいま、引用もリスペクトもパロディも剽窃もさんざんされ手垢がついてしまったが、それでもなおオリジナルのもつ魅力は1ミリも色褪せていない。
12歳で受けた衝撃と感動は、今も変わらずで、映画を観る悦びを改めて思い出させてくれた。
たぶん死ぬまでこの作品を超える映画は出てこないんだろうな。
追記:今回の4DX上映で、唯一要らなかったのは椅子の動きとエアーの噴出だった。てことは4DXの意味がなかったって事になるかね。だって誰目線で動いてるんだからさっぱりわかんないんだもん。スクリーンに出てる何かに合わせて揺れたって、感情移入の邪魔になるだけだよ。
ルパンの行動や心情に合わせて動くんであれば、また印象は変わってくるのに…
おまけ:
この映画観るたびに食べたくなるミートボールスパゲッティ。
俺の映画飯No.1。
って事で作ってみた。
満足、満腹。