『弥栄の烏 八咫烏シリーズ6』 阿部 智里 読書メーター

弥栄の烏 八咫烏シリーズ6

弥栄の烏 八咫烏シリーズ6

 

「弥栄」に含まれた意味が壮絶だ。猿と烏と人の物語は、少数民族の闘いと抑圧、吸収と繁栄の物語だ。蝦夷、沖縄、東北などで行われた原住民族と倭人との歴史を振り返ること無く今の繁栄を満喫する日本の私たちへ向けた痛烈な刃だ。大猿の語る幸せと誇り、烏が取った阿りはどちらがよい悪いではないが、私はどうしても猿に共感してしまう。復讐のために冷酷な鬼となった雪哉が口にする正義の言葉は薄ら寒く、そこにある勝利と平穏は血塗られた行為でしかない。愛すべきだった雪哉の正義すら信じられない物とした作者の凄みに幻惑される。

音楽を聞くことの難しさ

日曜の深夜放送されている「間ジャム」をご存知だろうか?

関ジャニ古田新太が司会で、音楽に関わるゲストを呼び、そのゲストならではの話しを聴く番組だ。

これがちょうど良いくらいのマニアックさで、見ていてそうなのかと気付かされる事が多く、J系の番組らしくない見応えのある内容なのだ。

アレンジャーがゲストの時は編曲のノウハウや音の使い方を語ったり、ベーシスト3人集めてベースあるあるを語ったり、音楽の素養がまるでない私には、毎回刺激的で興味が尽きない。

 

そんな番組と、アルトサックスを習い始めたおかげで、すっかり音楽の聞き方が変わってしまった。

この数年はガールフレンドのおかけでビルボードとか早稲田のライブハウスとかのライブにもたまに行くようになり、生音の演奏を聞くようになったのも大きい。

メロディと歌詞を聞いて、良い曲だとか、せいぜいボーカルの声が独特で好きだわとか思っていたのが、ベースのラインを追ってみたり、アレンジの中のオルガンやストリングスを探してみたり、こんなに音楽って情報に溢れてたのかと驚きながら、聞き慣れているはずの曲を次から次へと新鮮な気分で聞き直している。

ただ、音楽ってのは形がないぶん、聴き込むのがすごく難しくて、そこがほらベースみたいに指差したり明確な位置を教えてもらうことができない。当たり前だけど、これは深い。ベースの音なんてあっと言う間に見失っちゃう。

 

皆、良くこういう音に気づいて、楽しんでるよなと感心する。

同時に、音楽聞く深さってのをなんでもっと早く教えてくれないんだよと、ちょっとだけムカつく。

誰々のベースが凄いとか、あのアレンジは神だとかと誰かが言うのを漠然と聞いてたのが、この事かよ!と目から鱗の瞬間、他の人たちはどこでこういう事を教わってんだよって疑問が湧く。

10代の頃、ギターはもちろんなんの楽器もやってなくて、歳上の兄弟も友人もいなかったので洋楽も聞いてなかった、アイドル歌謡やフォークの延長のニューミュージックを聞いているしかなったから、なんの知識も経験もないまま大人になってしまってた。

損してた。

誰でもいいから教えて欲しかった。音楽の楽しみ方は尽きないよって。ほらこのベースライン、ちょー格好良くね?何なにな技法でさ、誰々が得意としてたんだよね、とかさ。

 

メロディや歌詞にストレートに感動するってのももちろん楽しい。

でも、プロが隅からすみまで計算して、感性を駆使して構築して形造られた曲は、アイドルだろうがロックだろうが、聞くほどに凄いと思う。

 

ずるいよ皆。こんな風に音楽を楽しんでんのなら、俺にも早く教えてよ。

てな事を踏まえ、最近では飲みの席でこのあたりの話しを得意げに語って、知ってるよおまえ分かってないねとかと笑われる事が増えた。大人になって楽器始めると、今更ながらこういう事に気づいて、急に語り始めるらしい。

これがまた嫌いじゃないんだな。

 

『少女』 映画 私たち、普通の女の子に戻ります!

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冒頭の演劇のような台詞のやり取りからこの映画は観客を煙にまく。

些細な部分まで徹底的なリアルな表現ではなく、演劇的な空気の中で、抽象的で観念的な事が、少女たちによって語られるのだと言う宣言みたいなものだ。

 

その宣言に違わず、二人の美女モデル本田翼と山本美月によって、友情と同性愛の間のような感情が語られていく。

 

たった一人の友人を想って小説を書く連ねる少女本田翼。

避けられない家族の因果によって剣道を諦めた友人を守ろうとする山本美月

二人とも非現実的なまでの重い想いを、大切にするがために裏切られた気分になったり、絶望を感じたりする。

 

そんなこんなの二人の美しい姿を観ているだけでもこの映画を観る価値はある。

 

が、この映画のコアは、解りやすいかたちで提示される因果応報だ。

主人公二人のすれ違いから再度の共有はもちろん、脇役の女子高生や稲垣演じる痴漢の冤罪で家庭が崩壊した男まで全ての撚り合わされる糸が因果応報に捕らわれている。

 

巡った因果の結果訪れる諸々の出来事が、カタルシスを与え観客が溜飲を下げるための映画でないが、痴漢冤罪で金を稼ぐ少女の家庭がああであったことによる顛末は、素直に正義を感じさせてくれる。安易なのはこの辺りのラインだけだ。

 

男には肌感的に理解できない10代女子のドロドロした心情は行動については、語る言葉を持たない。

そんなんだろうな、大変だよなとの共感しかできないが、本田翼が絶望を感じる2つのシーン盗作と裏切りに関しては、彼女の叫びに篭った辛さを実感した。

人生に達観したつもりで全てに斜に構えた頭でっかちな10代が、性的な事ではなく死ぬことに強く興味を惹かれながらも、ひょんな事から優しさに芽生えその結果としての親切が売切られる形で事件となった時の絶望と救いのない描き方は、シンプルなだけに刺々しく心に響く。

 

実直に妥協することなく選択した稲垣吾郎の演じる男性こそが、この映画の世界では 本当の救いで、周囲からどう言われようとも正しい。そんな男性にも拒絶されてしまうと慄く山本美月の感じる純粋さはまた違った形での救いだ。

傷つく事ができる。自分を恥じることができる。その上で足を踏み出せる事が、明日へ繋がる希望だ。

 

屈折し悩んだ美少女二人が自転車に乗って進むシーン。それに被さるもう一人の少女ののシーン。交わり会えない行く末の違いは切ないが、それも因果だ。

 

単純にに笑いあえる時間を共有できた姿に心満たされながら、重い気持ちで幕を閉じる。なんとも監督の術中に嵌ってしまったような微熱のような魅力の映画だ。

 

『団地』 映画 逃げりゃ良いんだよ。

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映画館で予告編観た時とはまるで印象の違う映画だった。

床下収納に身を隠した旦那の不在が団地に巻き起こすてんやわんやのコメディ映画だと思っていた。

まさかの展開に驚く。

 

藤山直美と岸田一徳が演じる老夫婦の、やんわりとしながらもキツイ口調の大阪弁のやりとりが素敵だ。この映画の空気の心地よさは二人の自然な大阪弁が醸し出している。

 

中盤あたりまでの団地に住む人々の噂話をめぐる騒動はそれだけでも面白い物語だと思う。

暇を持て余し、社会との接点のほとんどない主婦やぐーたら亭主ら、団地と言う狭い世界だけで暮らす人たちの興味本位と知力のかけらもない無責任で条件反射的な噂話が、いつのまにか「真実」となり、真摯に生きる人を攻撃し排除していく様は、笑いを誘うと同時に背筋を凍らせる。団地だけでなく、この国や世界にあふれている今の姿だ。

妄想から勝手に噂話をし、その噂話が真実であるかのように頭の中で摩り替わり、その責任を他者に強制し脅し、真実を隠している悪人だと迫り、正義ヅラをした弱い被害者だと騒ぎ立てる。どこかの政党や左巻きがよく使う手法だ。

周囲のコードから外れた独自の価値観で生活する人を許容できないどころか、想像すらできない偏狭な視野と価値観を無根拠に信じ揺らがない人たちは、周囲を見回せばいたる所にいるし、鏡の前にもいる。

この気持ち悪い連中からの同調圧力の塊のような責めを、気持ち良くすぱんと切り捨てるのが藤山直美だと思っていたら、物語は意表をつく展開を迎える。

 

「なんでもあるのが団地だ」との台詞で煙に巻いているが、このオチはこの映画の評価を真っ二つに分けてしまうものだ。脚本/監督の阪本氏は十分承知であえてこの展開を描いたとしか思えない。

公開当時のインタビューでは「顔」で高い評価を受けた藤山直美とのタッグで十数年ぶりに映画を作るにあたって「らしくない」映画を撮りたいと思ったと答えている。

それもあっただろうが、この言葉の裏側には、この映画で描こうとした本質を隠し、少しでも多くの人にメッセージを伝えるための答えだと思う。

 

この映画で最終的に伝えたかったのは、辛い状況があったのなら、逃げて良いんだって事だ。

それが死ぬことだったとしても逃げることは答えになると逃げを全面的に肯定している。

不慮の事故で死んだ息子のいる世界に、夫婦そろって逃げる事は、穏やかな生活を手にいれる事だし、暴力的な父親を殺すよりは死んであの世で穏やかに暮らす事の方がどれだけ幸せか。

間抜けに見えるラストシーンは、逃げ切った人たちの天国の様子だ。

こんな倫理に反するメッセージをストレートに映画として世に投げかけるわけにいかないから、一見突拍子もない展開に見せる手法を阪本監督は選択したようにしか見えない。

 

ほのぼのと笑わせて、うすら寒い閉塞感との戦いを見せながら、最後には世間では口にし辛いが正しいメッセージを突きつけてくる。

ある意味恐ろしく、とても強い映画だ。

ほんと、そこに居ることに拘らず逃げりゃ良いんだよ。

『ハクソー・リッジ』 映画 君は生き延びることができるか?

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第二次世界大戦沖縄戦で米軍に実在した銃を持たず参戦した戦士の実話。

銃を持たず激戦の戦場に赴き、何十人という負傷兵、その中には日本兵も含まれた、を救出したと言う事実に驚かされる。

本人は生前頑なに映画化を拒んだと言う。

彼の心情はわからないが、普通の映画化であれば拒絶したくなる気持ちも理解できなくはない。ヒーローや奇跡の人として扱われたいからの行動ではなく、あくまでも信仰の結果としての事実でしかないことを、娯楽の中で美化されたり誤解されたくないと言う真摯な思いだろう。

 

沖縄戦、オーストラリア人監督、中国資本が幅を効かす現在のハリウッド製作の映画。ちょっと考えるだけで、醜悪で残酷な日本が貶められ、宗教に裏付けられた正義が実行される事で感動を生むリアル風味のプロパガンダ色の強い戦争映画なのだろうと思っていた。

が、この映画はまるで違っていた。

狂的な信仰を貫いた男の戦場での行いの物語だった。

狂った男が起こす狂った行動が正義を生み、感動させる映画だった。

 

己の信じる信仰から銃を持ち人を殺すことはできないが、戦争で同胞が死んでいく事に耐えられず、米軍兵として戦争に参加したいと熱望する。

この考え自体がすでに狂っている。信仰と言う理屈がなければ成立しない対極的な考えが自然に一つものになっている。

この狂った価値観を真摯に描き切った事がこの映画の一番の肝だ。

また、この映画は、政治的な価値観については一顧だにしない。

天皇陛下万歳と叫びながら突撃する日本人も非人道的な火炎放射器で日本人を人としてではなくモノとして燃やす尽くすアメリカ人も同質な存在として描かれる。

なぜなら信仰に基づく信念が生んだ戦場での感動的な奇跡を実現した男の存在を描く事だけが目的だから。

 

冒頭兄弟喧嘩で兄をレンガで殴りつけるシーン、その結果「汝殺すなかれ」の言葉が人生に深く刻まれるシーン、のちに妻となる看護婦との出会いのシーン、志願する前の生活のそれぞれのシーンですでに偏執的な性格が描かれるが、それらは全て肯定的に描かれるし観客にもなぜかポジティブに映る。

真摯で素直で少し不器用な好青年に見えるから不思議だが、良く考えれば気持ち悪い。

 

悲惨を極める戦場で、もう一人、もう一人と祈るように口にする姿は感動的だ。

しかしあの状況の中で、延々と諦める事なく人を救う事のみに専念する強さは狂気以外の何物でもない。

彼は神の声は聞こえないとはっきりと口にする。それでもなお信じる神の教えを守り通す姿は、神の在不在は、信仰の本質でなく、信じ貫く事のみが力を持つのだと気づかされる。

冒頭からラストの気高いシーンまで一貫して描かれるのは、この狂気と同質の信仰を貫く意思の強さだ。

狂気と言えば強すぎるのであれば、ありえないほどの徹底さが、結果として人に感動を与える。なんとも因果な映画だ。

しかし、突き詰めれば人の心を動かすのは過剰なまでの何かであるのだ。

そんな当たり前なのに、日常では隠されている事に気づかされる。

 

『平等ゲーム』 桂 望実 本 読書メーター

平等ゲーム (幻冬舎文庫)

平等ゲーム (幻冬舎文庫)

 

清濁併せ飲む事で人は生き生きと生活ができる。自分の中の暗い欲望や嫉妬心などを見ればその通りだとも思うが、青臭い部分では主人公の怒りにも共感する。全員の幸せのために守るべきルールを守れない悪い人間を監視するのは理想を維持するための必要悪だと、鷹の島に暮らしていれば、私はきっと主人公の提案に賛同するだろう。しかしその先に待っているのはソビエトのような監視社会であろうことも容易に想像がつく。結局理想のユートピアはどこにも無いという絶望しか感じない私とは違い、それでも理想を探そうとする主人公は若く強いのだと思う。 

『ローガン』 映画 そして、父になる

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ローガンの物語が終わった。

10年以上に渡り彼の姿をスクリーンで観てきた私達は静かに彼を送るしかできない。

彼の最後の物語が、守り抜きたかった『父』と守り通した『娘』と共にあった事が嬉しい。

 

R指定の過激な描写のアクションシーンも多いが、観終わった後に残るのはなんて静かな栄がだったんだろうという感触だ。

 

3組の親子が、登場する。

老齢に至り己のチカラをコントロール出来なくなり自らの子供達を誤って殺してしまった後悔に苛まれる親と同じく老齢により己の根幹となる力を失いつつある子の最後の道行。まるで老老介護だ。

その上、死に近づいた父から過去の行いを全否定するような怨嗟の言葉すら聞かされる。ヒーローであった二人が社会から祝福も葬送される事もなく、衰弱と圧迫により悲壮な旅を続けていく。その姿に胸が熱くなる。

何よりも心に焼き付くのは、スーパーマンのように明確に世界を滅ぼす絶対悪と対峙してスターになり社会に受け入れられたヒーローではなく、マイノリティへの迫害に抗いながら自らの存在を認めさせてきた『ヒーロー』だったX-MENの最後が、やはり誰にも見届けられることなくマイノリティ同士の闘いの中で、静かに閉じられる事だ。

もう一組の健全な市井の親子も、父は家族を守るために闘い子は父を見守り追っていくが、やはり社会から賞賛される事はない。

最後のローガンとローラの父娘も最後に心を通じ合うが、死に行く者のはマイノリティ達にだけ見送られ、人の近づかない森の中に埋葬される。

状況だけ見れば、あまりにも悲しい最後だ。

しかし、ローガンの道行きを見届けた観客の私達だけは知っている。

最後の瞬間に彼がローラから、力の使い方や存在の意味を説く導者として、彼女を守る守護者として、彼女へ明日を繋いだ父として、つまりヒーローとして受け入れられた事を。

娘に明日を繋いだ父として、大切な者にとってのヒーローとして満足して死んで行った事を。

ローガンは、始めから誰かに認められ賞賛されるヒーローになりたかったわけではない。

人体実験により産まれたモンスターだ。

その事を何よりも自覚し苦悩してきた彼だからこそ、父を守りきれずとも父と自らの希望を託した小さな存在が、彼の必死の行動を通して彼を認め受け入れ、大切な人として見送られた事に喜びを感じただろう。

 

ストレートなヒーロー映画ではないが、だからこそ真の意味でのヒーローの物語だった。

去りゆくローガンの心情を思い、この先事あるごとに見返したくなる映画だ。