『関数ドミノ』 舞台 繋がってんだよ、好きでも嫌いでも
劇団イキウメの代表作の一つを、外部演出家と役者によって再演。本多劇場。
過去に2つバージョンのあるうち初版オリジナルの戯曲をもとに作者前川知大が改稿している。
そこにある空気と役者の存在感が妙に生々しい舞台だった。本多劇場という箱のサイズもあるが、すぐそこにいる誰かの話を横から覗いているような感触だった。
主演の真壁薫を演じる瀬戸康史の演技がそう感じさせたのだと思う。ごく自然に今時の若者から、狂気の顔、冷静な観察者、熱狂的な思索者、精神の貧弱へと次々と表情を変えていく様子は、舞台から観客を知らないうちに支配していた。彼の声が多数のシチュエーションを通して一貫したものでありながらトーンで観る側の心情をコントロールしていた。
真鍋のある発想から登場人物たちが不可思議な状況、犯罪的な行為にまで巻き込まれていくのだが、観客も同時に瀬戸の演技で不定な状況に巻き込まれていく。
クローズアップもカットの切り替えもないなかで、最後まで引き込んでいく演技は素晴らしかった。
前川知大らしいSF的な設定ドミノが、果たして本物なのか、狂った弱者の屁理屈な言い訳なのか、最後まで余談や安易な安心感を与えない物語に説得力を持たせ、最後のシーンに微かな不安な希望を残すのも、瀬戸の演技と、周囲の役者の巻き込まれる受けの演技とが良いバランスで成立しているからだ。
ストーリーが投げ掛ける、人の幸福や不幸はドミノのせいなのか、人の心の持ちようや見方によるだけの物なのかの問いかけは、永遠に答えの出ないものだ。
幸せや不幸の因果を物理的に説明できる理由かあれば、それは楽だろう。自分の行いの責任や努力を放棄し、全て外部に託す事ができる。同時に努力や行動では解決できないあまりにも理不尽な状態は本当は誰かの作為や超自然的な何かのせいではないかという疑いを抱いてしまうことを否定もできない。
人は誰しもそれほど強くない。それこそ小さな神様を信じる事は、誰にでもある。
外部に理由を見つける姿が狂人のように見える瞬間と、それが一転し超自然を周囲が受け入れ本人が懐疑的になった姿もまた狂人のよう映る瞬間を、強烈に印象付ける構成は見応えがあった。
結論なんて出せない事柄を、同情を安易にさせない構成で観客に投げ掛ける寓話は、前川知大らしい骨太なものだ。
前川知大が演出したオリジナルはどんな舞台になっていたのだろうか?
真壁たちが別の登場人物の部屋を監視するシーンでは、今回のように左右に完全に別れるのではなく、多重的に重なり狭い舞台の上に2つの空間を交わらせるようなものだったのだろうかなどと、想像するだけでも興味が尽きない。
余談たが、ラストシーンの街灯のアレは、AKIRAか童夢のアレだ。大友漫画っぽい設定も含め、ちょっとした遊びが楽しい。まあ勝手な思い込みだけれど。
『髑髏城の七人 風』 舞台 橋本じゅん最高だぜ
花、鳥と続いた髑髏城も3バージョン目の風。
主役の捨之介は、松山ケンイチ。
無界屋蘭兵衛には向井理、天魔王は松ケンの一人二役、極楽太夫に田中麗奈がそれぞれキャスティングされている。
ついでに雁鉄斎には橋本じゅん。
古田新太が過去に演じた一人二役バージョンをどう松ケンが演じきるか楽しみだったが、想像以上の良い演技だった。
もともも漫画的になりがちな声や演技が、外連味溢れる新感線の舞台にマッチしていた。以前の『蒼の乱』の役よりもずっと彼の資質にあっていると感じた。
なにせ織田信長の影武者で南蛮渡来の鎧と面で顔を隠した影武者っていう漫画設定だから、彼のような役者は自然に存在感を示せるんだと思う。
鳥と違って躍りや歌のような分かりやすい変更はなく、一人二役に合わせた細かな展開の違いがあるくらいだったが、今回の風は、花鳥に比べて、捨之介と欄兵衛との関係や、欄兵衛と極楽太夫の関係がすごく分かりやすく伝わる舞台だった。
細かな台詞や脇の絡みかただけの違いが主だが、回転舞台を使った新しい演出も貢献していたと思う。
森で欄兵衛に極楽太夫が抱きつき、抱擁し合う二人をセンターに残して舞台が回転していき無界屋のセットが登場してくる場面転換は、二人の関係を見せながら場面=状況が変わって行くことを、この舞台装置でしかできない手法で描き、とても美しい構成になっていた。
残念なのは欄兵衛の向井理だ。立ち姿は美しいし演技も役にあっていたが、殺陣がいただけない。
早乙女太一と比較するのはかわいそうだか、鳥のあの美しい欄兵衛の殺陣を観た後では、どうしても不満が残る。
いっそのこと鳥の阿部サダヲの二刀流の短刀や、や今回の松ケン登場時の瓢箪のように、向井理に合わせた形であの殺陣を変更すれば良かったなと思う。
小栗旬の花が王道、阿部サダヲの鳥が新しいエンタメ要素だとしたら、今回は原点回帰の上で分かりやすい入門編だ。
残るダブルキャストの月、その後の極とどう展開していくのか1年かかりの大舞台のこの先が楽しみだ。
納涼歌舞伎 『桜の森の満開の下』舞台 新しい古典の生まれる瞬間
野田秀樹、夢の遊民社の代表的な舞台を、ほぼ戯曲をそのままに歌舞伎の舞台にした作品。
驚いた。本当にまんま遊民社の戯曲をそのままに通りなのに、所作や言葉遣い、動きや鳴り物が変わるだけで、こうも違ったものに見えるのか。
野田秀樹が演じた耳男を勘九郎が演じ、埜田とも父とも異なる飄々とした男を表現していた。
オオアマの市川染五郎、夜長姫の七之助、それぞれが、当て書きわされたかのように怪しく妖しい存在感を示していた。
いわゆる古典歌舞伎とは異なる、筋立ても人情も勧善懲悪もない、野田秀樹らしい言葉と幾重にも重なったイメージが意味を伝える舞台だが、板の上には歌舞伎、現代の歌舞伎が広がっていた。
勘三郎さんは、空の上で悔しがっていたことだろう。鼠小僧などの野田版歌舞伎は古典の世界の話しを今に演じていた舞台だったが、桜の森の満開の下は、現代の新しい歌舞伎そのものだったから。
年初に公演のあった『足跡姫』は、野田秀樹から盟友勘三郎への想いだったが、そこに溢れていたイメージは、そのままこの桜の森の歌舞伎の板に繋がっていた。舞台をところ狭しと散る薄桃色の桜の花弁は、友を送ると同時に未来を迎え入れる花道だった。
とても良い舞台体験をする事ができた。
坂口安吾 2編 『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』 本 読書メーター / 『贋作・桜の森の満開の下』 野田秀樹・舞台DVD 納涼歌舞伎「桜の森の満開の下」への予習
『桜の森の満開の下』
妖しく咲き誇る満開の桜。本来の桜は狂おしく嫌悪に近い悪魔的な魅力を持つものだ。薄桃色の美しい花弁が幾重にも重なる姿に身を晒せば、そこで感じるのは悦びではなく恐怖だ。女性の美しさの本質も同じものだと見抜き、その恐ろしさとだからこその愛しさ、愛の狂気を描く坂口安吾の筆に痺れた。明るさや癒しが美しさの源でない。呑気に日々を過ごして当たり障りなく生きていれば、全くもって非常識な、しかし真実を見極めるような真摯て修羅の生き方と愛を求めて生きていきたい。
『夜長姫と耳男』
坂口安吾の描く人のあり方は、モラルや常識やコードに縛られず純粋で真摯なだけに残酷で醜悪だ。夜長姫があどけなくピュアに求める事柄はまっとうな日常から見れば、倫理に外れた酷い物事だが、人の根源のあり方から見ればしごくまっとうな欲求だ。耳男が両方の耳を失って初めて夜長姫の真の美しさを自分の眼を通して知る事ができ、姫を自分だけのものとした事も納得できる。「好きなものは~」と姫に美しく残酷で永遠の真実を語らせる安吾の壮絶な真摯な姿に改めて心が震える。そうだ、世界はなんて残酷で醜悪で、だからこそ愛しいんだ。
『贋作・桜の森の満開の下』 夢の遊民社
90年代に日本青年館で収録された舞台をDVDで。
圧倒的な言葉と体の力。遊民社の代表作の一つとしてあげられる事の多い作品だ。
安吾の原作のうち『夜長姫〜』の印象が強い話だが、野田秀樹らしい世界への翻訳が美しかった。
安吾が見切った、残酷で悪女だからこその本質としての女性の美を、舞台の上で描きながら国造りの残酷な側面に絡めてみせる。
鬼、国が同義で異議で、耳が象徴するモノと桜が見せる幻想と現実の世界が美しかった。
年初の『足跡姫』にも繋がる桜の樹の満開の下のセットが、舞台だからこその儚さで登場人物たちの言葉を包みこんでいた。
『髑髏城の七人 鳥』 舞台 歌えや踊れ
4月に観た『髑髏城の七人』のアナザーバージョン。
主役の捨之介は、阿部サダヲ。
無界屋蘭兵衛には早乙女太一、天魔王に森山未來、極楽太夫に松雪泰子がそれぞれキャスティングされている。
古田新太や小栗旬の着流しイメージから一変した阿部サダヲが良い味を出していた。
花バージョンに対して細かな役どころの変更などあったが、何より大きな違いは、歌と踊りの扱いだ。
やたらと歌って踊ってた。
松雪なんて何曲歌ってんだ?
MIKIKOの振り付けが、踊りの売りの一つになっていて極楽太夫と遊女たちの踊りは確かに今までの新感線らしくない、可愛らしくてセクシーなダンスシーンになっていた。
この歌と踊りが表しているように鳥バージョンは、今までの髑髏城や花バージョンに比べて、娯楽色、エンタメ色が強くなっている。
好きずきが分かれるだろう部分だ。
私にはちょっとがちゃがちゃすぎているように感じた。
特に、早乙女太一の殺陣があまりにも美しいだけに、このがちゃがちゃ感とのギャプがもったいなく感じた。
早乙女と森山の殺陣は、それぞれの出自がよくあらわている舞台でしか堪能できない美しさなだけに、もっとシリアスな展開の中で観たかった。
本当に綺麗なんだよ、二人の動きが。延々と続けて欲しい殺陣で、髑髏城史上一二を争う名場面だと思う。
360シアターの使い方は花よりも小慣れていたが、その分驚きが減ったのも正直な所だ。流れる川や広がる平原など、凄いんだけど、前回との違いが見つけられなかった。これは目が慣れたリピーターにはしょうがないといえばしょうがない事なんだけど、新しい驚きを感じたかった。
ただ、ここまで書いて鳥バージョンがダメだったかというと、娯楽作として髑髏城の世界が広がったのは素直に嬉しい。新感線のエンタメ部分を拡大していけば、シリアスな芝居も場合によってはここまで柔らかく仕立てられるってのは面白かった。
少なくとも4バージョン全てを観ようと考えているファンにとっては、それぞれの個性が立っている事は必要だし、劇団がどんな形で違いを見せてくれるのかは観劇の重要なポイントの一つだから。
次の風バージョンは、久々の捨之介と天魔王の一人二役バージョンで、古田新太の演じた過去の髑髏城に対して松ケンがどんな演技で見せてくれるか楽しみだ。
最後の月バージョンは、ダブルキャストまでは公表されていて先行の予約が始まっているが、キャストではなくスタッフを見ると、どうも新感線のもう一つの路線ロック歌舞伎になるんじゃないかと想像している。
舞台そのものを楽しむのとはまた異なった楽しみ方だが、この特殊な劇場のこけら落とし公演のロングランなら、こうした楽しみもまたありだ。
『郵便屋さんちょっと2017 PS. I love you』 舞台 つかかどうかは関係ねえ こともないか
新宿 紀伊國屋ホール。
つかこうへいの戯曲とエッセイは、80年代10代だった私の身体の一部だった。
つかこうへいと栗本慎一郎と村上龍で、自分の身体と思想はできていた。何かといえばそう口走ってた。
自意識過剰でニューアカ、サブカル気取りの、田舎の嫌な文系高校生だ。
つかこうへいの戯曲を初めて読んだのがこの『郵便屋さんちょっと』が収録された『戦争に行けなかったお父さんのために』だ。
自意識と社会の中であるべき事への過剰な追求、ケレン味とそれをまとわざる得ない強烈な照れ、暴力性と愛情が表裏一体になり絡み合ったマイノリティの複雑な愛。革命を口にして生きたはずの周囲への絶望とすがる希望。自意識と共同幻想とギャップの間でもがく人のサガと業。
脳味噌と体中が痺れた。
馬鹿と文化がわからない田舎モンばっかりだと周囲に絶望していた自惚れたガキには、強烈なストレートパンチだった。
地方の一般家庭の高校生は、生のつかこうへいの舞台を観ることはなんてできるはずもなかったし、大学入学で上京してからもたった一度だけ、牧瀬里穂が観たいという理由で西洋劇場で『幕末純情伝』を観ただけだ。北区の舞台にもあえて行かなかった。
なぜなら最高の舞台は戯曲を読んで頭の中に構築されていたから。これ以上の傑作が本当に上演されるのか不安で舞台には行けなかった。
もちろん今は大後悔しているのは言うまでもない。
そんな戯曲がつかじゃない人の手で再演される。しかも一時代つかと共に歩んだ元編集者の出版社社長の熱い支援を受けてなんてことに、期待が高まると同時にまったく期待できないという両極端な気分を抱いてしまうのはしょうがないじゃないか。
オリジナルの戯曲はあくまでも原作で、演出の横内謙介が上演台本を書き、現代のエンターテイメント舞台として、頭から終わりまであっと言う間の小劇場でのエンタメ大舞台に生まれかわっていた。
人と人を結ぶ郵便屋だからこそ、運ぶ価値のない手紙を書くようなヌルい書き主を批判し、純粋に吉報を待つ阿呆に希望を与える配達を考える。例え手紙を盗み読んでも。という主人公達の行動と世界は同一だが、学生運動や政治の話しは後退し、愛の物語が大きく広がっていた。
現代につかが蘇ったのか?この脚色によってあの当時の小劇場の劇団の熱、観客の快楽は呼び戻せたのか?
つかこうへいが蘇ったかどうかはわからないし。正直どうでも良い。すでに死んだ作家だ。最高の舞台は記憶と共に自分の頭の中に、彼の言葉は本としてすぐそばにある。
演劇の熱や観客の快楽は間違いなく今日の劇場にあった。
テーマだとか心に響く何かとは関係ない。
喋って動いて泣いて笑って歌って踊って、身体を使って一枚の板の上を縦横無尽に使って観客を引っ掻き回す。上品だとか高尚な技術や手法や高い文化性や評価とは無縁に、ただ笑わせる泣かせる驚かせる喜ばせるためなら何だってやる、ベタだろうが浪花節だろうが舞台と身体の全てを使う。
楽しくなはずがない。
観客の反応に怯え、だからこそ徹底的に挑発し、あらゆる手法を使ってこれでもかと舞台を作っていったつかこうへいらしいと言えば、まさにつかこうへい的だ。終演後くじ引き大会やる劇団なんてあとにも先にも彼んとこだけだ。
その姿勢、その演技、その志の真摯さだけが、舞台の上で問われるのも同じだ。
今日は学生優待日だったらしく、周りは10代の学生だらけ、しかも10人を超える大集団で、正直なちゃんと感激できるか、その無駄口を上演中も続けるようなら叩き切るぐらいの心中でいたが、幕が開いた途端に彼ら彼女らも全員が、大きく笑い驚き拍手をしていた。
こんな体験したら後が大変だぞ。
なかなかこの熱を与えてくれる舞台はそうないから。
色々な意味で面白い舞台はたくさんあるが、この熱とサービス精神に溢れたエンターテイメントを別な場所で探すのは難しい。
それでも生の舞台にしかない観劇の喜びを一人でも多くの10代に知ってもらえるのは嬉しい。
彼らを喜ばせるため、彼らにまた別の形の舞台の快楽を経験させるため、そんな動機が一部になった新しい舞台の流れができてくれれば、今以上に舞台の世界が豊かになる。
少なくとも一部のタレント事務所の都合でやたらと増える、原作ありの舞台もどき、舞台らしきものが相対的に後退してくれるだけでも嬉しい。
上演期間も短いし、週末には東京では千秋楽だが、日曜の昼にはまだ空席があるらしい。
ぜひ体験してほしい。
劇団イキウメ 『天の敵』 演劇 東京芸術劇場シアターイースト ごま油香る、食欲と脳味噌を刺激する舞台
劇団イキウメ。
徹底して菜食にこだわる料理家とALSにかかった余命5年のジャーナリストとの会話の中から浮き上がってくるのは、料理研究家の驚くべき遍歴。彼は122歳だった。健康によい完全食とは何なのか。
冒頭の料理番組収録シーンで、牛蒡の金平と入り豆腐ご飯を実際に調理する時のごま油の香りが劇場に広がり胃袋を掴まれた。上手くて美味い演出だ。
胃袋が虜になっている間に、食べる事、生きる事へと物語が広がり、最後まで緊張感の途切れない密度の高い舞台だった。
人にとっての完全食を追い求めるうちに行き着いたある物、命の塊である食材を身に取り入れる事で、永遠の若さを手に入れた男の孤独と苦悩から見えてくるのは、食物連鎖から外れてしまった人間の存在。自然から逸脱してしまう人間と言う存在の有り様。
食べる事だけではなく、人工の太陽さえ人は作ってしまうのだ。
天の敵は、永遠の存在になった料理家だけでなく、老いへの恐怖から倫理を超えて永遠の命を求めてしまう行動をする人そのものなのだと問いかけてくる。
例え完全食を求める最初の動機が、飢えに苦しむ貧しい人たちが健康に生きるためだったとしても、結果は傲慢で不幸としか生まない。
ごま油の香りに、腹減ったなと食欲に取り憑かれるように、若くありたいなと願う事、人の欲望じたいが敵になる根源なのだと実感させる演出は見事だ。
主人公にインタビューをするジャーナリストが最初は122歳である事など鼻で笑い、途中から事実として受け入れながらも倫理の視点から抜け出せない。インタビューの終わりには、圧倒的にリアルになってしまった倫理を外れた事柄を無理に笑いに変える事で目の前の信じられない事実を虚構にしようとすらするが、主人公のまっすぐな瞳の前では転化できずに終わる。
物語の終わり、余命5年の我が身と妻子供の事を思いながらの言葉にできない苦悩と、彼を包み込む妻の最後の一言は、観る者の心にも染み込み、結論の出せない共感と認められない自分の欲望を突きつける。
明日が東京の最終日だが、一人でも多くの人に観てもらいたい舞台だ。
役者が良い。
特に主役の浜田信也と小野ゆり子が素晴らしい演技を見せてくれる。
どんな存在なのか明らかにされない劇の前半では浜田のまばたきしないようなぶれない視線が不穏な存在感を醸しだし、過去の回想の中では活き活きと輝く瞳と大声で笑う姿が良く似合う好奇心と探究心に溢れた男を実感させる。過去が現在につながった後は、冒頭の一直線だった視線の空気が変わり心情を表す意思の溢れたものになっている。
こんなに上手い俳優を知らなかった自分が残念だ。
小野ゆり子も女子大生から80歳の老婆まで演じきり、浜田の演技を正面から受けて返す柔らかな芯の強さを熱演していた。どこか儚げな空気感が浜田の存在を受け入れた役の深さを体現していた。
他の8人、イキウメの男優、客演の女優それぞれが時にユモーラスに時にシリアスに物語に最適なあり方で演じている。
空腹感と頭の満腹感を抱え、余韻を抱えながら劇場を後する幸せな体験だった。