坂口安吾 2編 『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』 本 読書メーター / 『贋作・桜の森の満開の下』 野田秀樹・舞台DVD 納涼歌舞伎「桜の森の満開の下」への予習

桜の森の満開の下

桜の森の満開の下

 

桜の森の満開の下

妖しく咲き誇る満開の桜。本来の桜は狂おしく嫌悪に近い悪魔的な魅力を持つものだ。薄桃色の美しい花弁が幾重にも重なる姿に身を晒せば、そこで感じるのは悦びではなく恐怖だ。女性の美しさの本質も同じものだと見抜き、その恐ろしさとだからこその愛しさ、愛の狂気を描く坂口安吾の筆に痺れた。明るさや癒しが美しさの源でない。呑気に日々を過ごして当たり障りなく生きていれば、全くもって非常識な、しかし真実を見極めるような真摯て修羅の生き方と愛を求めて生きていきたい。

 

 

夜長姫と耳男

夜長姫と耳男

 

 『夜長姫と耳男』

坂口安吾の描く人のあり方は、モラルや常識やコードに縛られず純粋で真摯なだけに残酷で醜悪だ。夜長姫があどけなくピュアに求める事柄はまっとうな日常から見れば、倫理に外れた酷い物事だが、人の根源のあり方から見ればしごくまっとうな欲求だ。耳男が両方の耳を失って初めて夜長姫の真の美しさを自分の眼を通して知る事ができ、姫を自分だけのものとした事も納得できる。「好きなものは~」と姫に美しく残酷で永遠の真実を語らせる安吾の壮絶な真摯な姿に改めて心が震える。そうだ、世界はなんて残酷で醜悪で、だからこそ愛しいんだ。

 

 

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『贋作・桜の森の満開の下』 夢の遊民社

90年代に日本青年館で収録された舞台をDVDで。

圧倒的な言葉と体の力。遊民社の代表作の一つとしてあげられる事の多い作品だ。

安吾の原作のうち『夜長姫〜』の印象が強い話だが、野田秀樹らしい世界への翻訳が美しかった。

安吾が見切った、残酷で悪女だからこその本質としての女性の美を、舞台の上で描きながら国造りの残酷な側面に絡めてみせる。

鬼、国が同義で異議で、耳が象徴するモノと桜が見せる幻想と現実の世界が美しかった。

年初の『足跡姫』にも繋がる桜の樹の満開の下のセットが、舞台だからこその儚さで登場人物たちの言葉を包みこんでいた。

 

贋作・桜の森の満開の下

贋作・桜の森の満開の下

 

『打ち上げ花火、下から見るか?上から見るか?』 映画 シャフトの無駄使い

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普段はどんな映画でも良いところを見つけて、褒めるようにしている。

この映画も製作したシャフトの作画や演出は、映画として素晴らしいと思う。

オープニングからのタイトルバックの花火なんて、実写では表現不可能な美しさだ。

この映画はこの辺りしか褒める部分がない。私には合わなかった。

 

オリジナルのテレビドラマは、リアルタイムで観た。「世にも奇妙な物語」がヒットして二番煎じで企画された「Ifもしも」の中でこのドラマが放送された時の衝撃ったらなかった。

奥菜恵の少女でも大人でもない特別な一瞬の存在を切り取った映像は、10代だった男子には幻のようだった。恋に落ちない男子なんて想像できなかった。

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声変わり前の小学6年生の男子の夏休みの1日を、ノスタルジックにリリカルに、ありそうでないファンタジーとして描いた岩井俊二は天才映像作家だと思った。

 

あのドラマをリメイクする、しかもアニメで、となるのであれば、何をテーマに据えるか、それが問題だ。

少年の憧れと恋心の対象となる少しだけ先に大人になった美少女。

子供時代最後の夏休みの1日、それは恋心を知ると同時に、自分ではどうにもできない学校外の大人の世界を垣間見る瞬間。

くだらない事にムキになる楽しさと自分の気持ちを正直に語れない虚勢を感じる友情。

夏休みの夜忍び込むプール。

 

あげていけばきりがないが、こうした空気の組み合わせが、このドラマを記憶に強く残る作品にしている。

がこの映画は、中途半端にオリジナルを継承しつつ、オリジナルを改変した部分と水増した映画独自の部分が。ことごとくこの作品の根本と微妙にずれていた。

中学生ではなく高校生にしか見えないキャラ。

本当に夏休みなのか、暑い夏なのか伝わってこない空気。蝉がないてない夏休みはないよ。

現実から遠く離れていくファンタジー。

後付けされたタイムリープの方法。しかも物語都合で整合のとれていない設定。

肌を這う蟻ではなく、近づけば逃げるはずの赤とんぼ。

ジブリの二番煎じの海を走る電車。

声変わりした俳優と声優。などなど。

 

繊細な気持ちと空気を、繊細に描く事で奇跡のように成立していた世界が、まったくの不発になっている。

作画や背景、特殊効果が独自の美しさを持っているだけに、この繊細さが表現できなかった事は、あらためて残念だ。

タイムリープが『君の名は。』の二番煎じだとかの問題じゃない。繊細な男子の気持ちをそっと形にすべきところを、完全なパッッケージにしてしまったことが根本の問題だ。

脚本の大根仁は、ドラマが好きすぎたのだろう。『モテキ』の二話の聖地巡礼の回は抜群に面白かったのに、好きがまさって大きく裏切って自分のものにする事ができなかった。

なんでキスなんてさせるんだ??それは『打ち上げ花火〜』の世界じゃないだろ。

キスどころか、淡すぎて気づかないけど、でも間違いなく心に残る初恋こそが、夏の花火の夜の記憶じゃないか。

 

最後に映画オリジナルで気に入った事を話て終わろう。

不思議の玉が砕け散った瞬間、たくさんの時間線に存在した、またこれから存在するだろう様々なもしもがなずなと典道に降り注ぐシーンは、実写では表現できず、またシャフトのクオリティだからこそできた素敵なシーンだと思う。

この欠片の中でキスしてしまうのも、どうにもうなづけないが。

 

オリジナルドラマを知らず、初めてこの映画に触れた少年の感想を聞いてみたい。

あの夏休みの1日、奥菜恵に恋してしまったように、この作品のなずな永遠の美少女に恋を感じただろうか?

もと少年だった大人は、あの頃の気持ちを思い出す事ができただろうか?

 

追記:

観賞後ずっとわからないシーンがあった。

なずなが「いなくなった」と説明する父親の事だ。

子供を肩車しているカットと海に溺死体として浮かぶカット、その手元に不思議の玉が浮いているカットが続く。

なぜ父親がなくなったのかの説明がまったくされない。

唐突な想像だけ書くが、なずなの父も典道となずなのようにもしもを繰り返し駆け落ちを成功させたのではないか。

その結果なずなを子供として授かることができたが、もしもの繰り返しの中で海を命を落としてしまったのどはないか。

となると典道が、なずなと海で沢山のもしもに囲まれた先には死が待っていることになり、エンディングの不在は、典道がいなくなってしまった事に繋がって行く。

まああくまでも個人的な妄想だ。仮にそうだとしても、それならば描写が少なすぎるし、抱いた感想が覆るわけでもないけど。

私の頭の上を通りすぎて行った男たち 人格を形成してきた読書遍歴

※この記事は、自分語りです。しかも長い。

 

夏休みに、10代の頃を思い出し、私の人となりに影響を与えた作家たちについてつらつらと考えてみた。

10代の頃の読書は、もろに人格に影響を与えてるなあと、改めて思った八月の暑い朝。

 

小学校低学年の時、図書館においてあるジュブナイルシャーロック・ホームズ全集にはまり、イギリスのスノッブと探偵に憧れる。

大学入学後探偵サークルへ入部。

 

その後図書館の小学生向けSF全集から、本格のSF全集まで触手を広げ、筒井康隆の狂気と光瀬龍の浪漫に痺れる。

 不信な癖にメディアに近いところどで働いているのは『東海道戦争』のせいさ。

またこの頃、古本屋という存在を知り、大人コーナーでSMスナイパーと衝撃的な邂逅。淫靡でアンダーグラウンドな緊縛の虜に。

「SMスナイパー」の画像検索結果

このあたりの影響と趣味の世界は、このブログではなくU-18の別ブログで。

 

本ではないが、テレビで『宇宙戦艦ヤマト』『ガンダム』と二つの巨大な彗星が人生に飛来。オタク第一世代として順当な道を歩みはじめる。

ヤマトのファンジンを、当時大好きだった女子と作っていたのは、甘酸っぱい思い出。

そしてマチルダに恋し、スレッガーの無頼さに憧れ今のフェミニンなナンパ野郎の道へ。

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中学三年。受験は県内有数市内一の進学校に合格するのはなんとなくわかったいたため適当にやりすごしているその時、ついに栗本慎一郎『幻想としての経済』に出会ってしまう。

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過剰と蕩尽。蕩尽のための日常。パンツを脱ぐために履いた猿。今までの稚拙な人生観はことこどく崩壊し、偏った人生観の基礎が出来上がってしまう。

そして坂口安吾堕落論』で、堕ちた先にしかない真実を語る無頼に触れ、周囲の全ての大人と学友が馬鹿にしか見えなくなる。

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だめ押しでつかこうへい『熱海殺人事件』小説版と戯曲版が百姓、ド田舎者への憎悪を肯定し、かなりのジャックナイフ感を醸し出していた。と自分では思っていたが、ただのネクラな自意識過剰な嫌な野郎でした。

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高校時代は本ばかり読んでいる偏屈なガキで、孤独と孤立は俺の友と嘯きながらも、小学4年から続く学級委員連続登板を更新し9期完投するという、なんだかよくわからない青春を送る。

余談だが、中学三年で転校した超絶な美女同級生に高校で再開し、村下孝蔵「初恋」のまんま校庭を走る君を僕は遠くで見つめていたが、大失恋を二度経験する。

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栗本を追いかけ明治大学に入学したは良いが、リサーチ不足で法学部ではなく文学部に入ってしまい、講義やゼミに正式には参加できず、仮面法学部生として授業を受けるも本来の学部では赤点ばかりで最低限の成績、あやうく留年しそうだった。

 

当時住んでいた杉並の駅そばにあった貸本屋(!!)で村上龍『愛と幻想のファシズム』を借りて読んだことが、私の人格形成の最後の一打となる。『コインロッカー・ベイビーズ』『テニスボーイの憂鬱』各種エッセイを貪るように読み漁り、俺はなんで村上龍ではないんだろう、この蕩尽スタイルこそが俺の人生だと完全に刷り込まれ、今の私が完成した。

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こうやって振り返ると、うん十年たった今も基本はあの頃と何も変わってないな。

良し悪しや、行動の基準になる価値観はこの時形成されたもののまんまだ。

もちろん社会人としての経験を経て、表へ出す方法や人との距離の作り方はかなりマイルドになったけれど、大元のコアは変わってない。

 

というのが、私の読書遍歴10代編です。

このあとは雑食と化し、活字中毒へのまっとうな道を歩んで参りましたとさ。

おしまい。

 

 

堕落論 (角川文庫)

堕落論 (角川文庫)

 
小説熱海殺人事件 (角川文庫)

小説熱海殺人事件 (角川文庫)

 
愛と幻想のファシズム(上)

愛と幻想のファシズム(上)

 

 

 

 

『髑髏城の七人 鳥』 舞台 歌えや踊れ

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4月に観た『髑髏城の七人』のアナザーバージョン。

 

主役の捨之介は、阿部サダヲ

無界屋蘭兵衛には早乙女太一、天魔王に森山未來、極楽太夫に松雪泰子がそれぞれキャスティングされている。

 

古田新太小栗旬の着流しイメージから一変した阿部サダヲが良い味を出していた。

花バージョンに対して細かな役どころの変更などあったが、何より大きな違いは、歌と踊りの扱いだ。

やたらと歌って踊ってた。

松雪なんて何曲歌ってんだ?

MIKIKOの振り付けが、踊りの売りの一つになっていて極楽太夫と遊女たちの踊りは確かに今までの新感線らしくない、可愛らしくてセクシーなダンスシーンになっていた。

 

この歌と踊りが表しているように鳥バージョンは、今までの髑髏城や花バージョンに比べて、娯楽色、エンタメ色が強くなっている。

好きずきが分かれるだろう部分だ。

私にはちょっとがちゃがちゃすぎているように感じた。

 

特に、早乙女太一の殺陣があまりにも美しいだけに、このがちゃがちゃ感とのギャプがもったいなく感じた。

早乙女と森山の殺陣は、それぞれの出自がよくあらわている舞台でしか堪能できない美しさなだけに、もっとシリアスな展開の中で観たかった。

本当に綺麗なんだよ、二人の動きが。延々と続けて欲しい殺陣で、髑髏城史上一二を争う名場面だと思う。

 

360シアターの使い方は花よりも小慣れていたが、その分驚きが減ったのも正直な所だ。流れる川や広がる平原など、凄いんだけど、前回との違いが見つけられなかった。これは目が慣れたリピーターにはしょうがないといえばしょうがない事なんだけど、新しい驚きを感じたかった。

 

ただ、ここまで書いて鳥バージョンがダメだったかというと、娯楽作として髑髏城の世界が広がったのは素直に嬉しい。新感線のエンタメ部分を拡大していけば、シリアスな芝居も場合によってはここまで柔らかく仕立てられるってのは面白かった。

少なくとも4バージョン全てを観ようと考えているファンにとっては、それぞれの個性が立っている事は必要だし、劇団がどんな形で違いを見せてくれるのかは観劇の重要なポイントの一つだから。

 

次の風バージョンは、久々の捨之介と天魔王の一人二役バージョンで、古田新太の演じた過去の髑髏城に対して松ケンがどんな演技で見せてくれるか楽しみだ。

最後の月バージョンは、ダブルキャストまでは公表されていて先行の予約が始まっているが、キャストではなくスタッフを見ると、どうも新感線のもう一つの路線ロック歌舞伎になるんじゃないかと想像している。

舞台そのものを楽しむのとはまた異なった楽しみ方だが、この特殊な劇場のこけら落とし公演のロングランなら、こうした楽しみもまたありだ。

 

 

『弥栄の烏 八咫烏シリーズ6』 阿部 智里 読書メーター

弥栄の烏 八咫烏シリーズ6

弥栄の烏 八咫烏シリーズ6

 

「弥栄」に含まれた意味が壮絶だ。猿と烏と人の物語は、少数民族の闘いと抑圧、吸収と繁栄の物語だ。蝦夷、沖縄、東北などで行われた原住民族と倭人との歴史を振り返ること無く今の繁栄を満喫する日本の私たちへ向けた痛烈な刃だ。大猿の語る幸せと誇り、烏が取った阿りはどちらがよい悪いではないが、私はどうしても猿に共感してしまう。復讐のために冷酷な鬼となった雪哉が口にする正義の言葉は薄ら寒く、そこにある勝利と平穏は血塗られた行為でしかない。愛すべきだった雪哉の正義すら信じられない物とした作者の凄みに幻惑される。

音楽を聞くことの難しさ

日曜の深夜放送されている「間ジャム」をご存知だろうか?

関ジャニ古田新太が司会で、音楽に関わるゲストを呼び、そのゲストならではの話しを聴く番組だ。

これがちょうど良いくらいのマニアックさで、見ていてそうなのかと気付かされる事が多く、J系の番組らしくない見応えのある内容なのだ。

アレンジャーがゲストの時は編曲のノウハウや音の使い方を語ったり、ベーシスト3人集めてベースあるあるを語ったり、音楽の素養がまるでない私には、毎回刺激的で興味が尽きない。

 

そんな番組と、アルトサックスを習い始めたおかげで、すっかり音楽の聞き方が変わってしまった。

この数年はガールフレンドのおかけでビルボードとか早稲田のライブハウスとかのライブにもたまに行くようになり、生音の演奏を聞くようになったのも大きい。

メロディと歌詞を聞いて、良い曲だとか、せいぜいボーカルの声が独特で好きだわとか思っていたのが、ベースのラインを追ってみたり、アレンジの中のオルガンやストリングスを探してみたり、こんなに音楽って情報に溢れてたのかと驚きながら、聞き慣れているはずの曲を次から次へと新鮮な気分で聞き直している。

ただ、音楽ってのは形がないぶん、聴き込むのがすごく難しくて、そこがほらベースみたいに指差したり明確な位置を教えてもらうことができない。当たり前だけど、これは深い。ベースの音なんてあっと言う間に見失っちゃう。

 

皆、良くこういう音に気づいて、楽しんでるよなと感心する。

同時に、音楽聞く深さってのをなんでもっと早く教えてくれないんだよと、ちょっとだけムカつく。

誰々のベースが凄いとか、あのアレンジは神だとかと誰かが言うのを漠然と聞いてたのが、この事かよ!と目から鱗の瞬間、他の人たちはどこでこういう事を教わってんだよって疑問が湧く。

10代の頃、ギターはもちろんなんの楽器もやってなくて、歳上の兄弟も友人もいなかったので洋楽も聞いてなかった、アイドル歌謡やフォークの延長のニューミュージックを聞いているしかなったから、なんの知識も経験もないまま大人になってしまってた。

損してた。

誰でもいいから教えて欲しかった。音楽の楽しみ方は尽きないよって。ほらこのベースライン、ちょー格好良くね?何なにな技法でさ、誰々が得意としてたんだよね、とかさ。

 

メロディや歌詞にストレートに感動するってのももちろん楽しい。

でも、プロが隅からすみまで計算して、感性を駆使して構築して形造られた曲は、アイドルだろうがロックだろうが、聞くほどに凄いと思う。

 

ずるいよ皆。こんな風に音楽を楽しんでんのなら、俺にも早く教えてよ。

てな事を踏まえ、最近では飲みの席でこのあたりの話しを得意げに語って、知ってるよおまえ分かってないねとかと笑われる事が増えた。大人になって楽器始めると、今更ながらこういう事に気づいて、急に語り始めるらしい。

これがまた嫌いじゃないんだな。

 

『少女』 映画 私たち、普通の女の子に戻ります!

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冒頭の演劇のような台詞のやり取りからこの映画は観客を煙にまく。

些細な部分まで徹底的なリアルな表現ではなく、演劇的な空気の中で、抽象的で観念的な事が、少女たちによって語られるのだと言う宣言みたいなものだ。

 

その宣言に違わず、二人の美女モデル本田翼と山本美月によって、友情と同性愛の間のような感情が語られていく。

 

たった一人の友人を想って小説を書く連ねる少女本田翼。

避けられない家族の因果によって剣道を諦めた友人を守ろうとする山本美月

二人とも非現実的なまでの重い想いを、大切にするがために裏切られた気分になったり、絶望を感じたりする。

 

そんなこんなの二人の美しい姿を観ているだけでもこの映画を観る価値はある。

 

が、この映画のコアは、解りやすいかたちで提示される因果応報だ。

主人公二人のすれ違いから再度の共有はもちろん、脇役の女子高生や稲垣演じる痴漢の冤罪で家庭が崩壊した男まで全ての撚り合わされる糸が因果応報に捕らわれている。

 

巡った因果の結果訪れる諸々の出来事が、カタルシスを与え観客が溜飲を下げるための映画でないが、痴漢冤罪で金を稼ぐ少女の家庭がああであったことによる顛末は、素直に正義を感じさせてくれる。安易なのはこの辺りのラインだけだ。

 

男には肌感的に理解できない10代女子のドロドロした心情は行動については、語る言葉を持たない。

そんなんだろうな、大変だよなとの共感しかできないが、本田翼が絶望を感じる2つのシーン盗作と裏切りに関しては、彼女の叫びに篭った辛さを実感した。

人生に達観したつもりで全てに斜に構えた頭でっかちな10代が、性的な事ではなく死ぬことに強く興味を惹かれながらも、ひょんな事から優しさに芽生えその結果としての親切が売切られる形で事件となった時の絶望と救いのない描き方は、シンプルなだけに刺々しく心に響く。

 

実直に妥協することなく選択した稲垣吾郎の演じる男性こそが、この映画の世界では 本当の救いで、周囲からどう言われようとも正しい。そんな男性にも拒絶されてしまうと慄く山本美月の感じる純粋さはまた違った形での救いだ。

傷つく事ができる。自分を恥じることができる。その上で足を踏み出せる事が、明日へ繋がる希望だ。

 

屈折し悩んだ美少女二人が自転車に乗って進むシーン。それに被さるもう一人の少女ののシーン。交わり会えない行く末の違いは切ないが、それも因果だ。

 

単純にに笑いあえる時間を共有できた姿に心満たされながら、重い気持ちで幕を閉じる。なんとも監督の術中に嵌ってしまったような微熱のような魅力の映画だ。