『「週刊文春」編集長の仕事術』 新谷 学 本 読書メーター

 

「週刊文春」編集長の仕事術

「週刊文春」編集長の仕事術

 

 普段ビジネス書の類は読まない。ありきたりな教訓には辟易とするしかないし、ありがたいお言葉は身から出ていない感が臭って気色が悪いから。よっぽど村上龍のエッセイの方が心に響くし、日々の支えになる。この本は浮世絵で謹慎食らった編集長の露悪的な言葉が読めるのではと期待して手に取った。書かれているポイントに目新しさは無かったが、身を張ったプロが語る言葉はリアルで強烈だ。組織に関わる教訓は特に私には鋭かった。ちゃんと意味と意志が伝わってきた。実践できているからこその強さを、どこまで自分のものにできるか。それが全てだ。

『髑髏城の七人 花』 舞台 劇団☆新感線 回る、回るよ客席回る♬ ちょっと酔いそうなの

 

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豊洲に新しくできた360度舞台で観客席が回転する劇場のこけら落とし公演。

 

劇場の様子も書こうかと思ったのだけど、場内は上演中以外も撮影禁止だったので、内部の画像は割愛。

 

ド定番の髑髏城。ベースはワカドクロ。

小栗旬が捨之介を演じて、山本耕史が蘭兵衛を演じる。極楽太夫のりょうの存在感が良かった。

捨之介は、オリジナルの古田新太も良かったが、ワカドクロ以降は、小栗旬のはまり役でキメの台詞の大見得を切る様は、なんとも貫禄の大迫力でも、観ているこっちも身体が震える快感だった。

 

アカドクロ、ワカドクロをゲキシネで観ていただけなので、生の舞台は初めて。

360度舞台が設置され、客席が回転する構造の劇場の特性を100%活用して、横と奥への広がり、水や作り込まれた重たいセットで、新感線らしいダイナミックな演技や殺陣が繰り広げられて、出し物としては充分に楽しかった。

水滴使ったスクリーンに投影されるタイトルの下に立つ小栗旬は、立体的にガツンと飛び出す髑髏城の七人の文字と融合して絵になってたな。

 

見世物としてなら、まさにいのうえ歌舞伎。しかも舞台は最先端だから、アップデートされてるから現代歌舞伎の真骨頂とも言える。

 

でも、なんか最後まで没頭できなかった。

同行者がいみじくも「やっぱり舞台は四角い方が良くない?」とポツリと言っていたが、特殊な舞台の凄さが全面に押し出され、演劇じゃなく劇場を観ている感じがどうしても頭から離れなかった。

実際に舞台は凄いんだよ。流れる水や、ウォータースクリーン、緞帳ではなくプロジェクションマッピングのスクリーンだし、花道代わりの円形の周縁通路は、演者が右へ左へ走り回るのに最適なフィールドだし、観てて飽きないのは間違いない。

客席の動きも思ったよりもスムーズで、アトラクションとしては上出来だと思う。

 

会場の機能を使い切りって演じるって事では、多分日本では新感線が一番最適な劇団だ。しかも髑髏城は最適な演目なんだけど、落ち着いて世界を満喫するにはその他の要素があまりも多すぎた。

この環境に慣れてないからかも知れないが。

 

小栗旬やりょうたちの演技は、物凄く良かっただけに残念なのが正直な感想だ。

あと劇場に合わせた演出のためなのか、前半はほぼ笑いのない展開。古田新太が一人で笑いの芝居は担って、劇団役者としてバランスを取ってた。シリアスと笑いのバランスがなんとなく前半は悪かった。

 

微妙な書き方なのは承知なのだけど、楽しくなかったかと言えば楽しかった。

世界で二番目、日本初の円形ステージ、動く客席と言う新しい劇場で、今までとは異なる観劇体験としてなら最高の体験だった。

ただアトラクションを楽しみに来てる感覚が強いので、演劇をどっぷり楽しむってのとはちょっと異なる感触だった。

 

次回は、阿部サダヲが捨之介、早乙女太一が蘭兵衛、極楽太夫を松雪泰子が演じる、『鳥バージョン』だ。

もちろん観に行く。

あのステージには慣れた。

どんなアレンジで、花バージョンとは違った舞台を繰り広げてくれるのか楽しみだ。

 

 

『髑髏城の七人』DVD

『髑髏城の七人』DVD

 

 

『ゴースト・イン・ザ・シェル (2017)』 IMAX3D 吹き替え版 映画 ゴーストじゃなくヨハンソンに囁いて欲しい、できれば耳元で

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色々と言いたい事があるのは、わかる。

だが、『攻殻機動隊』の実写化としては、特に世界を相手にしての実写化としては良い答えだったのだと思う。

 

良くも悪くも独特の押井節を排し、物質的な根拠を持たない意識「人形遣い」と言う実感しづらいテーマの代わりに自己の存在の意味を、脳と機械の体と言う攻殻機動隊オリジンな設定で問いかける。

「記憶が人を作るのではなく、有り様が人を作る」と言うテーマは、義体が根幹をなす世界観のこの作品の本質としてはど真ん中のものだ。

 

細かい事言えば、いくらでも文句は言えるが、押井版が公開された時には原作とのギャップに文句があがり、SACの時には押井版との違いに文句が出た。

そんなもんだ。その後はそれぞれが評価され攻殻機動隊の世界を広げている。

本質と作品の世界が包括できるテーマが扱われていれば、それはオリジンの一つとして評価されれば良い。

その意味でこの作品は、十分に攻殻機動隊だ。

アイデンティティーの問題と言う点では、オリジナル版よりもさらに一歩踏み込み丁寧に扱ってすらいる。

 

オリジナルやイノセンスへの愛情も大小様々な形でヴィジュアル化され、単純にカットを見るだけでも嬉しい部分にも溢れている。

襲撃するスーツ達のアタッシュケースのギミックが、押井版とまったく一緒だったのにニンマリした。

ヨハンソンの表情は、世界中のどの女優よりもアンドロイドで、それでいて艶やかでセクシーだ。あの質感な顔の中で妖しげに濡れている唇は、アニメーションでは表現できないぜ。

多脚戦車の造形や、あのシーンまでしっかりと演じている彼女と監督の攻殻機動隊を映画にしようとしている意志は高く評価できる。

 

「私は誰だ」の答えを明確にし揺るぎないものにする存在については、あまりにもわかりやすくて個人的には残念にも感じた。

物語での行動を通して受け入れた「私」と言う存在も、揺らぎを抱えた状態で次へ続くような展開こそが、テーマの本質を深めるものだとは思うのだけれど、一本のエンターテインメント映画としてのエンディングとしてなら許容の範囲だ。

 

望むべくは、『イノセンス』の感想や押井版での感想でも書いたが、バトーの男のやせ我慢と想いをもう少し描いて欲しかった。

私にとって映画版の攻殻機動隊シリーズは、ある意味でバトーの素子への純愛映画でもあるから。

興行成績が世界的に振るわないのが残念だ。

トー、トグサ、サイトウたち公安9課の連中の、大人の活躍をもっともっと大スクリーンで観たいし、タチコマ達の活躍も観たいじゃないか。

『ゴースト・イン・ザ・シェル 攻殻機動隊 (1995)』 映画 とにかく驚いた記憶は、本物なのか偽造なのか

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ハリウッド版を観る前に復習として。

原作漫画とのヴィジュアルや世界観の違和感にとまどいつつも、公開当時はそのヴィジュアルと、押井監督の哲学的な意味深セリフに圧倒された。

 

CGとセルアニメとの融合、撮影技法、香港ベースの無国籍な世界、公安9課と言うリアルプロフェッショナルオヤジ集団と言う設定、音楽、各種メカの質感、アクション、全てが最先端で、それまでの水準を遥かに上回るものだった。

その後20年以上の進化をとげた今、再観するとさすがに色あせて見える部分だれけだが、映画の本質は未だ変わらず、AIの期待全盛の今にも届くものだった。

 

プログラムされた人工知能が、無限に近いネットの世界での体験を通し自我を持ち、自分は何かと問いを深めていく。脳をネットと接続した人類、脳以外は機械に置き換えられた存在との対立を通して描かれるのは、生物的な質量を持たない意識と、オルタナティブな身体を持つ人間の意識との差異は何なのか。人の存在の本質は何なのか。と言う事だ。

 

この問いは20年経った今でも答えは見つかっていない。

サイボーグ化まではいかないが、スマホやPC、最近ならVRツールなどで拡張された意識は、生理的な機関を通して獲得される意識と異なるものなのか、拡張した意識を得た存在は、それまでの人たちとは異なるのか。今だからこそその先も射程に入れる事のできる問いだ。

言い換えれば、人とは、意識とは何なのか。

有史以来人が問い続けている根源的な問いだ。

アニメでそんな問いを投げかけられるのは、『イデオン』以来の衝撃だった。

答えを与える映画じゃないし、そんな中二病的な哲学「的」な疑問を弄びながら、擬体のエロさに興奮し、大人のアニメの世界観に熱狂する、そんな映画だった。

 

改めてオリジナル映画を観て気づかされるのは、バトー草薙素子への想いだ。

愛や恋なんて言葉にはできない、想い。

機械の目の内には、バトーの素子への想いがある。

大人の男はやせ我慢して、想う女を送り出すしかないじゃないか。

ネットは広大だわ」なんて言われたら、俺はここにいるよの一言も言わず、見守るしかないよな。

そんな想いを踏まえて作られた続編『イノセンス』は、だから私のお気に入りの一作だ。

イノセンス』鑑賞当時の感想はこちら。

『愚行録』 貫井 徳郎 本 読書メーター

 

愚行録 (創元推理文庫)

愚行録 (創元推理文庫)

 

 愚かなのは、登場する被害者夫婦、犯人、インタビューを受ける人々だけじゃない。この本を読んでいる自分自身も愚かなんだと静かに気付かされる嫌な一作。読者と言う安全な位置から、イケてる夫婦の若気の愚行をやっちゃってるなと笑い、彼らを語る人々の自己擁護や小市民的なプライドやらを悲しいなと憐れむ。が、ふと自分を省みると、彼等全ての言葉や行動や心理はそのまま自分が普段行っていることと同質だと気付き、とたんに嫌な気分になる。最後の数行で語られる、一生懸命に頑張ってきた行い、結果としては愚行だが、への思いは切実で哀しい。

『みかづき』 森 絵都 本 読書メーター

 

みかづき

みかづき

 

 熱中時代に憧れ教師になりたい時もあった。日教組反対と叫んだ青春の日もあった。三代にわたる教育に関わる真摯な親子の物語を読み終えて我が身を振り返ると、子供との交流への稚拙な憧れか、教わる事の反動や教師への不信、学校の質の低さへの苛立ちを思い出す。子供へ考える力を与える教育、効率主義から溢れた子供を救う教育。読書中胸が熱くなる良い人たちばかりで安心して読み終えることができた。しかし現実では功利的な進学塾、無能な親、疲弊した教師、甘い理想、前を向く気のない生徒等が溢れている。現実を変える力があれば良かったのに。

『ディストラクション・ベイビーズ』 映画 殴るのは止めて、痛いから

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映画を観る理由の一つに、未体験の興奮、涙でも怒りでも笑いでも恐怖でもなんでも良い、を味わえるんじゃないかって期待がある。

 

この映画の予告編を映画館で観たときは震えた。

剥き出しで理由のない暴力。柳楽の存在感が不穏で、スクリーンから未体験の興奮が伝わってきた。

 

結局スクリーンでは観られず、オンデマンドでの鑑賞になってしまったが、期待に違わぬ興奮を体験できた。

 

あらすじ

愛媛県松山市西部の小さな港町・三津浜。海沿いの造船所にふたりきりで暮らす芦原泰良と弟の将太。喧嘩に明け暮れていた泰良は、ある日を境に三津浜から姿を消す―。松山の路地裏、強そうな相手を見つけては喧嘩を仕掛け、打ちのめされても食い下がる泰良。彼に興味をもった北原裕也が、「おもしろいことしようや」と声をかける。

 

柳楽優弥が良い。

ほとんど台詞がなく、表情だけで見せる暴力の発露の瞬間の眼差しに魅せられる。

バンドマンに襲撃する間際の目なんて、静かにズレている異世界の恐怖しか感じさせない。

 最後まで貫いている不穏な空気が良い。

十代の頃多くの人が持つ暴力の衝動。

後付も含めて理由があるような気になるが、根本には周囲のあらゆるものへの破壊の欲求しかなかった。

スポーツやセックスで健全に昇華できない。

昇華できるものでもない衝動ってのがあった。

 今も内側になんとなく残ってる。そんな手応えがある気がする。

 

映画の不穏な空気が、理不尽な暴力に嫌悪を感じると同時に、それ以上の興奮と、飼いならして無くなったはずの衝動の残り滓を刺激する。うかうか安心して映画を観ていられない。

 

なんて幸せな映画体験だ。

 

物語に登場する十代の男二人が対照的だ。

説明もなく己の衝動に正直に人を殴り続ける柳楽。

柳楽に乗ることで、己の暴力性を安全な場所から発露する菅田将暉

ビビりで、虎の威をかることでしか自分の衝動を表せず、逆に安心な場所では狂気を誰よりも爆発させるが安全な弱者にだけ的を絞るという姑息さは無くなさない。

『ワールド・オブ・マイン』の一人を思い出す。 

最終的に迎える結末もそれぞれに相応しいもので、映画に震えた観客にもカタルシスを与えてくれる。

 

 

身体の中にも暴力の衝動があったなんて、格好つけて書いたが、私は間違いなく菅田だ。

姑息でビビリで、自己の暴力の衝動さえストレートに発露できず、痛々しく姑息な男だ。

想像する殴られた時の痛みやその後を怖がり、自分を曝け出せなかった/出せない。

彼のエスカレートする行動を観ている間、自分の情けない姿が写すだされているようで、心が痛くてしょうがなかった。

 

だから、倫理に外れ、外道な奴だと分かっていても、同時に柳楽にどこか共感と憧れを感じた。道徳を軽々と超越して自分の欲望だけに正直に生きる事、痛みやしがらみを気にする事なく衝動をぶつける事を、どうしようもなく肯定したくなる。

 

この映画を十代の時に観ていたらどう感じていただろう。

狂い咲きサンダーロード』を十代に観た時の焦燥感と、閉塞感を吹き飛ばしたくなった衝動と暴力への欲望を超え、今と違う何かになっていただろうか。

過去を振り返るセンチな気分や、無い物ねだりや、今この場所からの逃避を求める自分だけにはけっしてなるまいと思って生きて来たが、校内暴力全盛期に、荒れる学校の中で暴力の予感をやり過ごしながら悶々としていた自分がどう感じたか知りたいと思った。

 

野蛮さや暴力を単純に感情的に否定して、この映画を観ないまま終わるのはもったいない。

柳楽の存在感と、観ている事の痛みに震える体験を味わって欲しい一本だ。