『聖なる怠け者の冒険』 森見 登美彦 本 読書メーター

聖なる怠け者の冒険

聖なる怠け者の冒険

 

 人はなぜ本を読むのか?その真相は!ジャージャーン!大いなる暇つぶしなのであります。なぜなら人は、人である前に怠け者だから。妄想の世界に遊び。夢の世界で狸に騙され。暑い夏の土曜の祭りの幻想に酔う。気がつけば、一日は終わり、楽しかったと全身が気だるくたゆたっているのであります。それで良いのかって?「どんとこい!」の精神で過ごした怠けた時間は、他に換えのない楽しいひとときであるですから、問題はないのです。

『黒龍荘の惨劇』 岡田 秀文 本 読書メーター

黒龍荘の惨劇 (光文社文庫)

黒龍荘の惨劇 (光文社文庫)

 

 大胆不敵で奇想天外なトリック。最後まで気づけなかった。さらりとした文体でオドロオドロシイ手触りではないが、その実書かれていることはかなり醜い。横溝的な手触りや因習の闇は軽いが、人の業の深さや罪の深さはこちらの方が上かも。北九州のあの事件を明治にリミックスしてみた、と言うかあの事件に関わる不気味さは普遍的なものとして背景にこっそりと隠している。作者の意図の厭らしさ(褒めてます)に魅せられた。

『「週刊文春」編集長の仕事術』 新谷 学 本 読書メーター

 

「週刊文春」編集長の仕事術

「週刊文春」編集長の仕事術

 

 普段ビジネス書の類は読まない。ありきたりな教訓には辟易とするしかないし、ありがたいお言葉は身から出ていない感が臭って気色が悪いから。よっぽど村上龍のエッセイの方が心に響くし、日々の支えになる。この本は浮世絵で謹慎食らった編集長の露悪的な言葉が読めるのではと期待して手に取った。書かれているポイントに目新しさは無かったが、身を張ったプロが語る言葉はリアルで強烈だ。組織に関わる教訓は特に私には鋭かった。ちゃんと意味と意志が伝わってきた。実践できているからこその強さを、どこまで自分のものにできるか。それが全てだ。

『髑髏城の七人 花』 舞台 劇団☆新感線 回る、回るよ客席回る♬ ちょっと酔いそうなの

 

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豊洲に新しくできた360度舞台で観客席が回転する劇場のこけら落とし公演。

 

劇場の様子も書こうかと思ったのだけど、場内は上演中以外も撮影禁止だったので、内部の画像は割愛。

 

ド定番の髑髏城。ベースはワカドクロ。

小栗旬が捨之介を演じて、山本耕史が蘭兵衛を演じる。極楽太夫のりょうの存在感が良かった。

捨之介は、オリジナルの古田新太も良かったが、ワカドクロ以降は、小栗旬のはまり役でキメの台詞の大見得を切る様は、なんとも貫禄の大迫力でも、観ているこっちも身体が震える快感だった。

 

アカドクロ、ワカドクロをゲキシネで観ていただけなので、生の舞台は初めて。

360度舞台が設置され、客席が回転する構造の劇場の特性を100%活用して、横と奥への広がり、水や作り込まれた重たいセットで、新感線らしいダイナミックな演技や殺陣が繰り広げられて、出し物としては充分に楽しかった。

水滴使ったスクリーンに投影されるタイトルの下に立つ小栗旬は、立体的にガツンと飛び出す髑髏城の七人の文字と融合して絵になってたな。

 

見世物としてなら、まさにいのうえ歌舞伎。しかも舞台は最先端だから、アップデートされてるから現代歌舞伎の真骨頂とも言える。

 

でも、なんか最後まで没頭できなかった。

同行者がいみじくも「やっぱり舞台は四角い方が良くない?」とポツリと言っていたが、特殊な舞台の凄さが全面に押し出され、演劇じゃなく劇場を観ている感じがどうしても頭から離れなかった。

実際に舞台は凄いんだよ。流れる水や、ウォータースクリーン、緞帳ではなくプロジェクションマッピングのスクリーンだし、花道代わりの円形の周縁通路は、演者が右へ左へ走り回るのに最適なフィールドだし、観てて飽きないのは間違いない。

客席の動きも思ったよりもスムーズで、アトラクションとしては上出来だと思う。

 

会場の機能を使い切りって演じるって事では、多分日本では新感線が一番最適な劇団だ。しかも髑髏城は最適な演目なんだけど、落ち着いて世界を満喫するにはその他の要素があまりも多すぎた。

この環境に慣れてないからかも知れないが。

 

小栗旬やりょうたちの演技は、物凄く良かっただけに残念なのが正直な感想だ。

あと劇場に合わせた演出のためなのか、前半はほぼ笑いのない展開。古田新太が一人で笑いの芝居は担って、劇団役者としてバランスを取ってた。シリアスと笑いのバランスがなんとなく前半は悪かった。

 

微妙な書き方なのは承知なのだけど、楽しくなかったかと言えば楽しかった。

世界で二番目、日本初の円形ステージ、動く客席と言う新しい劇場で、今までとは異なる観劇体験としてなら最高の体験だった。

ただアトラクションを楽しみに来てる感覚が強いので、演劇をどっぷり楽しむってのとはちょっと異なる感触だった。

 

次回は、阿部サダヲが捨之介、早乙女太一が蘭兵衛、極楽太夫を松雪泰子が演じる、『鳥バージョン』だ。

もちろん観に行く。

あのステージには慣れた。

どんなアレンジで、花バージョンとは違った舞台を繰り広げてくれるのか楽しみだ。

 

 

『髑髏城の七人』DVD

『髑髏城の七人』DVD

 

 

『ゴースト・イン・ザ・シェル (2017)』 IMAX3D 吹き替え版 映画 ゴーストじゃなくヨハンソンに囁いて欲しい、できれば耳元で

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色々と言いたい事があるのは、わかる。

だが、『攻殻機動隊』の実写化としては、特に世界を相手にしての実写化としては良い答えだったのだと思う。

 

良くも悪くも独特の押井節を排し、物質的な根拠を持たない意識「人形遣い」と言う実感しづらいテーマの代わりに自己の存在の意味を、脳と機械の体と言う攻殻機動隊オリジンな設定で問いかける。

「記憶が人を作るのではなく、有り様が人を作る」と言うテーマは、義体が根幹をなす世界観のこの作品の本質としてはど真ん中のものだ。

 

細かい事言えば、いくらでも文句は言えるが、押井版が公開された時には原作とのギャップに文句があがり、SACの時には押井版との違いに文句が出た。

そんなもんだ。その後はそれぞれが評価され攻殻機動隊の世界を広げている。

本質と作品の世界が包括できるテーマが扱われていれば、それはオリジンの一つとして評価されれば良い。

その意味でこの作品は、十分に攻殻機動隊だ。

アイデンティティーの問題と言う点では、オリジナル版よりもさらに一歩踏み込み丁寧に扱ってすらいる。

 

オリジナルやイノセンスへの愛情も大小様々な形でヴィジュアル化され、単純にカットを見るだけでも嬉しい部分にも溢れている。

襲撃するスーツ達のアタッシュケースのギミックが、押井版とまったく一緒だったのにニンマリした。

ヨハンソンの表情は、世界中のどの女優よりもアンドロイドで、それでいて艶やかでセクシーだ。あの質感な顔の中で妖しげに濡れている唇は、アニメーションでは表現できないぜ。

多脚戦車の造形や、あのシーンまでしっかりと演じている彼女と監督の攻殻機動隊を映画にしようとしている意志は高く評価できる。

 

「私は誰だ」の答えを明確にし揺るぎないものにする存在については、あまりにもわかりやすくて個人的には残念にも感じた。

物語での行動を通して受け入れた「私」と言う存在も、揺らぎを抱えた状態で次へ続くような展開こそが、テーマの本質を深めるものだとは思うのだけれど、一本のエンターテインメント映画としてのエンディングとしてなら許容の範囲だ。

 

望むべくは、『イノセンス』の感想や押井版での感想でも書いたが、バトーの男のやせ我慢と想いをもう少し描いて欲しかった。

私にとって映画版の攻殻機動隊シリーズは、ある意味でバトーの素子への純愛映画でもあるから。

興行成績が世界的に振るわないのが残念だ。

トー、トグサ、サイトウたち公安9課の連中の、大人の活躍をもっともっと大スクリーンで観たいし、タチコマ達の活躍も観たいじゃないか。

『ゴースト・イン・ザ・シェル 攻殻機動隊 (1995)』 映画 とにかく驚いた記憶は、本物なのか偽造なのか

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ハリウッド版を観る前に復習として。

原作漫画とのヴィジュアルや世界観の違和感にとまどいつつも、公開当時はそのヴィジュアルと、押井監督の哲学的な意味深セリフに圧倒された。

 

CGとセルアニメとの融合、撮影技法、香港ベースの無国籍な世界、公安9課と言うリアルプロフェッショナルオヤジ集団と言う設定、音楽、各種メカの質感、アクション、全てが最先端で、それまでの水準を遥かに上回るものだった。

その後20年以上の進化をとげた今、再観するとさすがに色あせて見える部分だれけだが、映画の本質は未だ変わらず、AIの期待全盛の今にも届くものだった。

 

プログラムされた人工知能が、無限に近いネットの世界での体験を通し自我を持ち、自分は何かと問いを深めていく。脳をネットと接続した人類、脳以外は機械に置き換えられた存在との対立を通して描かれるのは、生物的な質量を持たない意識と、オルタナティブな身体を持つ人間の意識との差異は何なのか。人の存在の本質は何なのか。と言う事だ。

 

この問いは20年経った今でも答えは見つかっていない。

サイボーグ化まではいかないが、スマホやPC、最近ならVRツールなどで拡張された意識は、生理的な機関を通して獲得される意識と異なるものなのか、拡張した意識を得た存在は、それまでの人たちとは異なるのか。今だからこそその先も射程に入れる事のできる問いだ。

言い換えれば、人とは、意識とは何なのか。

有史以来人が問い続けている根源的な問いだ。

アニメでそんな問いを投げかけられるのは、『イデオン』以来の衝撃だった。

答えを与える映画じゃないし、そんな中二病的な哲学「的」な疑問を弄びながら、擬体のエロさに興奮し、大人のアニメの世界観に熱狂する、そんな映画だった。

 

改めてオリジナル映画を観て気づかされるのは、バトー草薙素子への想いだ。

愛や恋なんて言葉にはできない、想い。

機械の目の内には、バトーの素子への想いがある。

大人の男はやせ我慢して、想う女を送り出すしかないじゃないか。

ネットは広大だわ」なんて言われたら、俺はここにいるよの一言も言わず、見守るしかないよな。

そんな想いを踏まえて作られた続編『イノセンス』は、だから私のお気に入りの一作だ。

イノセンス』鑑賞当時の感想はこちら。