『マジカル・ガール』 映画 チラ見せの魔法に魅せられて男は恋に落ちるんだよ
元魔法少女の美女が、現実に翻弄される物語かと思ってた。
12歳の学生と教師のファーストシーンの不穏な緊張感、一転流れる聞き覚えのあるような日本のアイドル歌謡のイントロと鏡に向かい踊る短髪の少女の後ろ姿。
これだけで、この映画の他にない手触りに心は鷲掴みされ、スクリーンから目が離せなくなった。
日本のサブカルに大きく影響された設定、極力説明を排した物語の展開や演出が、映画に深い奥行きと広い世界を与えていた。
鑑賞した誰もが語るように、この映画は多くを語らない。意図的に画として見せない、台詞として説明しない部分が数多くある。
観客は、物語や人間関係や過去を想像し、余白を埋めるようにして映画を観ざるをえない。だからこの映画は観客を選ぶ。
余白を埋めるそれぞれの想像が、物語を深くし世界を広げるから観客一人ひとりが受け取る感触は、異なっていく。
私には、12歳の二人の少女の魔法、呪いなのかも知れないが、に囚われた二人の男の愛情の物語だった。
12歳の少女の瞳に射抜かれた男達は、それぞれの方法で少女の願いを叶えようとする。
失業中の父は金策のために女を脅迫し、少女のために人を殺めた男は出所後またも女のために男を排除しようとする。
私には、この映画の主人公はバルバラの魔法に囚われた初老の男ダミアンだ。
揶揄われながらも少女の視線に捉われたダミアンは、バルバラが精神を病んでいく成長の過程のどこかで彼女のために罪を犯す。何をしたかはわからないが、彼はそのことを後悔していない。
彼女のために生きられることを悦びとすら感じているのかもしれない。だから出所して彼女に再会してしまうかもしれないことを怖がるのだ。
なんて寂しい愛だろう。
再び出会ったバルバラのため男と対峙するために身支度をするダミアンのダンディーでロマンティックなこと。
その姿で静かに男と対峙し自分の命を投げ打つような提案をしながらも、バルバラが普通に男とセックスしたことを聞いた瞬間にそれまでの冷静さを失ってしまう。
なんて狂おしい愛だろう。
病室のバルバラに悲劇の元になったアイテムを渡す時のしぐさと行動。人生のすべてをあの時の少女の魔法に捧げた男の献身に込められた重さ。
なんて静謐で激しい愛だろう。
彼の生き様と、彼をそのようにまでさせた魔法少女の力に私は心を震わせた。
繰り返しになるが、語られない多くの事柄を埋めるように鑑賞することで、異なった見方ができる映画だ。
とかげの部屋での行為やバルバラに仕事を紹介する女との過去、バルバラの体に残る印の理由などから、諧謔と快楽の物語として堪能するも良い。
余命少ない少女の想いを叶えようとする父と娘のすれ違った想いに涙する、親娘の悲劇の物語として咽び泣くのも良い。
余白を想像することを拒否し、分かりづらいだけの思わせぶりで破綻した物語だと切り捨てるのもかまわない。
男達が少女の魔法に魅せられたように、観客が映画のマジックに魅せられて、それぞれの物語に心を揺さぶられる。
映画を観ることの快楽がここにある。
『聖なる怠け者の冒険』 森見 登美彦 本 読書メーター
人はなぜ本を読むのか?その真相は!ジャージャーン!大いなる暇つぶしなのであります。なぜなら人は、人である前に怠け者だから。妄想の世界に遊び。夢の世界で狸に騙され。暑い夏の土曜の祭りの幻想に酔う。気がつけば、一日は終わり、楽しかったと全身が気だるくたゆたっているのであります。それで良いのかって?「どんとこい!」の精神で過ごした怠けた時間は、他に換えのない楽しいひとときであるですから、問題はないのです。
『黒龍荘の惨劇』 岡田 秀文 本 読書メーター
大胆不敵で奇想天外なトリック。最後まで気づけなかった。さらりとした文体でオドロオドロシイ手触りではないが、その実書かれていることはかなり醜い。横溝的な手触りや因習の闇は軽いが、人の業の深さや罪の深さはこちらの方が上かも。北九州のあの事件を明治にリミックスしてみた、と言うかあの事件に関わる不気味さは普遍的なものとして背景にこっそりと隠している。作者の意図の厭らしさ(褒めてます)に魅せられた。
『「週刊文春」編集長の仕事術』 新谷 学 本 読書メーター
普段ビジネス書の類は読まない。ありきたりな教訓には辟易とするしかないし、ありがたいお言葉は身から出ていない感が臭って気色が悪いから。よっぽど村上龍のエッセイの方が心に響くし、日々の支えになる。この本は浮世絵で謹慎食らった編集長の露悪的な言葉が読めるのではと期待して手に取った。書かれているポイントに目新しさは無かったが、身を張ったプロが語る言葉はリアルで強烈だ。組織に関わる教訓は特に私には鋭かった。ちゃんと意味と意志が伝わってきた。実践できているからこその強さを、どこまで自分のものにできるか。それが全てだ。
『髑髏城の七人 花』 舞台 劇団☆新感線 回る、回るよ客席回る♬ ちょっと酔いそうなの
豊洲に新しくできた360度舞台で観客席が回転する劇場のこけら落とし公演。
劇場の様子も書こうかと思ったのだけど、場内は上演中以外も撮影禁止だったので、内部の画像は割愛。
ド定番の髑髏城。ベースはワカドクロ。
小栗旬が捨之介を演じて、山本耕史が蘭兵衛を演じる。極楽太夫のりょうの存在感が良かった。
捨之介は、オリジナルの古田新太も良かったが、ワカドクロ以降は、小栗旬のはまり役でキメの台詞の大見得を切る様は、なんとも貫禄の大迫力でも、観ているこっちも身体が震える快感だった。
アカドクロ、ワカドクロをゲキシネで観ていただけなので、生の舞台は初めて。
360度舞台が設置され、客席が回転する構造の劇場の特性を100%活用して、横と奥への広がり、水や作り込まれた重たいセットで、新感線らしいダイナミックな演技や殺陣が繰り広げられて、出し物としては充分に楽しかった。
水滴使ったスクリーンに投影されるタイトルの下に立つ小栗旬は、立体的にガツンと飛び出す髑髏城の七人の文字と融合して絵になってたな。
見世物としてなら、まさにいのうえ歌舞伎。しかも舞台は最先端だから、アップデートされてるから現代歌舞伎の真骨頂とも言える。
でも、なんか最後まで没頭できなかった。
同行者がいみじくも「やっぱり舞台は四角い方が良くない?」とポツリと言っていたが、特殊な舞台の凄さが全面に押し出され、演劇じゃなく劇場を観ている感じがどうしても頭から離れなかった。
実際に舞台は凄いんだよ。流れる水や、ウォータースクリーン、緞帳ではなくプロジェクションマッピングのスクリーンだし、花道代わりの円形の周縁通路は、演者が右へ左へ走り回るのに最適なフィールドだし、観てて飽きないのは間違いない。
客席の動きも思ったよりもスムーズで、アトラクションとしては上出来だと思う。
会場の機能を使い切りって演じるって事では、多分日本では新感線が一番最適な劇団だ。しかも髑髏城は最適な演目なんだけど、落ち着いて世界を満喫するにはその他の要素があまりも多すぎた。
この環境に慣れてないからかも知れないが。
小栗旬やりょうたちの演技は、物凄く良かっただけに残念なのが正直な感想だ。
あと劇場に合わせた演出のためなのか、前半はほぼ笑いのない展開。古田新太が一人で笑いの芝居は担って、劇団役者としてバランスを取ってた。シリアスと笑いのバランスがなんとなく前半は悪かった。
微妙な書き方なのは承知なのだけど、楽しくなかったかと言えば楽しかった。
世界で二番目、日本初の円形ステージ、動く客席と言う新しい劇場で、今までとは異なる観劇体験としてなら最高の体験だった。
ただアトラクションを楽しみに来てる感覚が強いので、演劇をどっぷり楽しむってのとはちょっと異なる感触だった。
次回は、阿部サダヲが捨之介、早乙女太一が蘭兵衛、極楽太夫を松雪泰子が演じる、『鳥バージョン』だ。
もちろん観に行く。
あのステージには慣れた。
どんなアレンジで、花バージョンとは違った舞台を繰り広げてくれるのか楽しみだ。
『ゴースト・イン・ザ・シェル (2017)』 IMAX3D 吹き替え版 映画 ゴーストじゃなくヨハンソンに囁いて欲しい、できれば耳元で
色々と言いたい事があるのは、わかる。
だが、『攻殻機動隊』の実写化としては、特に世界を相手にしての実写化としては良い答えだったのだと思う。
良くも悪くも独特の押井節を排し、物質的な根拠を持たない意識「人形遣い」と言う実感しづらいテーマの代わりに自己の存在の意味を、脳と機械の体と言う攻殻機動隊オリジンな設定で問いかける。
「記憶が人を作るのではなく、有り様が人を作る」と言うテーマは、義体が根幹をなす世界観のこの作品の本質としてはど真ん中のものだ。
細かい事言えば、いくらでも文句は言えるが、押井版が公開された時には原作とのギャップに文句があがり、SACの時には押井版との違いに文句が出た。
そんなもんだ。その後はそれぞれが評価され攻殻機動隊の世界を広げている。
本質と作品の世界が包括できるテーマが扱われていれば、それはオリジンの一つとして評価されれば良い。
その意味でこの作品は、十分に攻殻機動隊だ。
アイデンティティーの問題と言う点では、オリジナル版よりもさらに一歩踏み込み丁寧に扱ってすらいる。
オリジナルやイノセンスへの愛情も大小様々な形でヴィジュアル化され、単純にカットを見るだけでも嬉しい部分にも溢れている。
襲撃するスーツ達のアタッシュケースのギミックが、押井版とまったく一緒だったのにニンマリした。
ヨハンソンの表情は、世界中のどの女優よりもアンドロイドで、それでいて艶やかでセクシーだ。あの質感な顔の中で妖しげに濡れている唇は、アニメーションでは表現できないぜ。
多脚戦車の造形や、あのシーンまでしっかりと演じている彼女と監督の攻殻機動隊を映画にしようとしている意志は高く評価できる。
「私は誰だ」の答えを明確にし揺るぎないものにする存在については、あまりにもわかりやすくて個人的には残念にも感じた。
物語での行動を通して受け入れた「私」と言う存在も、揺らぎを抱えた状態で次へ続くような展開こそが、テーマの本質を深めるものだとは思うのだけれど、一本のエンターテインメント映画としてのエンディングとしてなら許容の範囲だ。
望むべくは、『イノセンス』の感想や押井版での感想でも書いたが、バトーの男のやせ我慢と想いをもう少し描いて欲しかった。
私にとって映画版の攻殻機動隊シリーズは、ある意味でバトーの素子への純愛映画でもあるから。
興行成績が世界的に振るわないのが残念だ。
バトー、トグサ、サイトウたち公安9課の連中の、大人の活躍をもっともっと大スクリーンで観たいし、タチコマ達の活躍も観たいじゃないか。